晴久は山城の月山富田城で敵を迎え撃つことを選んだ

尼子晴久は打って出ることなく、防備を固める構えに出た。単なる消極策にも見える。だが、それが後に逆転への布石となるのであった。

月山富田城は、飯梨川右岸の「月山」(標高190メートル)を利用して構築された要害である。短期間で攻め落とせるはずのものではない。

義隆は時間をかけて準備を整えていく。帰伏した領主たちには所領安堵を認め、あるいは「御扶持」の許可を与えて経済支援を約束することで、その威容を膨張させていた。

義隆が出雲出兵に動員した人数は軍記『雲陽軍実記』によると、4万5000騎以上とされている。途方もない大人数である。

これを裏付けるものとして、義隆は、周防国・長門国・豊前国・筑前国の家臣と、備後国・安芸国・石見国の領主たちを率いて月山富田城に押し寄せている。軍記には誇張があるとしても、類を見ない大軍であったことは確実である。

6月7日には備後・石見・出雲国の国境にある赤穴あかな城の麓で豊前守護代・杉重矩すぎしげのりの大軍が尼子勢と交戦した。出雲国での戦いがここに始まったのである。しかし重矩は戦果を上げられず、赤穴城はその後1カ月以上、大内軍の侵攻を阻止した。

7月18日、毛利元就が現地に到着。27日、陶隆房すえはるかたが主導して、赤穴城を攻略。ここから石見国の有力領主である小笠原長徳おがさわらながのり長雄ながかつが大内軍に帰伏するなど、大内軍にとって順調な滑りだしとなった。

【図表】月山富田城古図(安来市歴史資料館レプリカ)
月山富田城古図(安来市歴史資料館レプリカ)(写真=Reggaeman/PD-Japan/Wikimedia Commons

開戦1カ月後、毛利元就も出雲に到着し、晴久は劣勢に

9月5日には冷泉隆豊率いる大内水軍が出雲国大根島だいこんじま(松江市八束町)で尼子勢と交戦。義隆は、水軍に石見沖の日本海から宍戸湖・中海を渡らせて、月山富田城に軍勢を迫らせていた。

同時に、調略工作も進めていた。当時、大内家臣・相良武任さがらたけとおから出雲国の三沢為清みさわためきよに宛てた密書(意味の通りにくい不自然な文章と省略された署名から推定される)も現存している。

このように西国一の大名が戦い慣れた将兵を進ませてくる状況に、28歳の若き当主・尼子晴久はいつ寝首をかかれるかと不安が募っていたことだろう。

実際に大内家臣・多賀隆長たがたかながが毛利元就と共同で、晴久を自害させ、娘婿の尼子誠久まさひさを当主にする計略を企てさせようとした記録が「尼子氏破次第」(『毛利家文書』158号)に残されている。