「逝った人を深く静かに思う」以上の葬儀はない

「ちょっと驚いたけれど、いかにも彼らしいなあと、かえって清々しい思いだったよ」

その気持ちは、私にもよく理解できるような気がしました。

どんな送られ方をしたいか、どんな葬儀にしてほしいかは、自分の人生の最終の幕をどのように引きたいか、ということだといえるでしょう。

自分が本当に見送られたい形で、旅立っていけばいいのです。「葬式ぐらい人並みに……」と思うのも自由なら、彼のように病院から火葬場へという直葬を選ぶのも自由です。もちろん、最後の最後まで盛大にしてほしいという考えだってありでしょう。

立派なものはさておき、簡素な形を望むと世間体が……と気にすることはありません。葬儀を含めて、人は限りなく自由でありたいと願う生き物なのですから。

ただ、そう望むのであれば、家族などにきちんと言い残しておくことが大事です。そして家族の側も、その遺志を尊重することが旅立っていった者をリスペクトすることになる、という認識を持つべきでしょう。

お父さんの遺志通りに、通夜も葬儀も戒名も位牌もない弔い方を貫いた息子さんの例は、知人から話を聞いた私にまで、お父さんへの尊敬や深い思いが伝わってくる感慨深いものでした。

私自身も葬儀はできるだけ簡素に、親族のほかは指折り数えるくらいの友人に穏やかに見送られたいと願っています。

簡素さは心を研ぎ澄ますものです。逝った人を深く静かに思う――。その思いがあれば、それ以上の葬儀はないと思うからです。

年齢を重ねたら、死について深く考える時間を持つ

私は40代で自分の墓を作り、60歳になった年に仏教を本格的に学び始めました。それほど意識していたつもりはないのですが、やはりどこかで、死を強く意識しながら生きてきたのかもしれません。

医師という職業を選んだ以上は宿命といえるのでしょうが、若いときから日常的に死がそこにある日々を送ってきたのです。やがて、人はなぜ死んでいくのだろうと考えるようになっていました。

診療所室の空の病院用ベッド
写真=iStock.com/LightFieldStudios
※写真はイメージです

幼い死、若い死、人生の盛りの死、老いて枯れるようにして亡くなる死……。

ときには、なかなか死を迎えられず、苦しむ例も見てきました。そうしているうちに、生きるとはどういうことなのか。どう生きれば死を静かに受け入れられるのかという考えが膨らみ、深まっていくのを体験してきたのです。

「死ぬことを学ぶことと、死ぬことは、あらゆるほかのはたらきと同様に価値の高いはたらきである」

ヘルマン・ヘッセの『人は成熟するにつれて若くなる』にある一節です。

老いの日は、体力的には人生の盛りを終え、静かに夕暮れに向かう軌跡です。

それは否定することもできず、逃れることもできない定めというべきでしょう。

その最後に死があることも皆、知っている……。しかし死は人生の終わりなのではなく、人としての完成形なのかもしれない。

私は最近、そう思うようになっています。老年になり時間にゆとりができたら、もっと死について熟考すべきだとお勧めしておきます。より多くの死を見つめ、自分なりの死についての思い、考えを確かなものにしていくべき年齢になったのだ、という自覚を持つべきです。