自分で考える習慣を奪う属人思考の罠

ここでみなさんに少しチェックテストをしてもらいましょう。いくつあてはまるでしょうか。

□経済でも政治でも歴史でも医学でも何でもいいが、誰か熱心に支持する専門家や評論家がいる
□本を読むとしたら、支持している人のものばかりを読む
□討論番組などで特定の人の意見に、つねに同意する
□支持する人の意見には間違いがないと確信している
□支持している人に批判的な対立説のほうが妥当性が高い場合でも、抵抗なく認めることはできない
□あなたの好まない人物がどのような説を唱えようが、興味がない

※YESが多い人は、属人思考傾向が強いかもしれません。

本書で、大学教育の体たらくを取り上げた際には、知識を疑うこともせず、自ら探究しようともしない「考え不精」の人について触れました。

こうした傾向のある人にとっては、自分の考えに一致していて納得しやすい説は、じつに心地よく響くものです。

また、そうしたお気に入りの説を毎度提供してくれる学者や評論家については、

「“この人”は間違ったことは言わない」「“この人”の言うことは正しい。それはいつでもだ」「“この人”の言うことは、あの有名人たちもずっと支持しているから疑う必要はない」といった具合に、ある種、奇妙な信仰をもつようになっていきます。

こうしたものごとについての判断基準が、その説の妥当性ではなく、「誰が言っているのか」という人的要素に置かれる考え方を「属人思考」と言います。

これはじつに危険な態度です。当たり前のことですが、ある人が言うことがつねに正しいということはあり得ません。あるときは至極まっとうな意見を言っていた人でも、別のテーマでは、見当はずれな意見に終始し論点がずれているということは、いくらでもあります。

その人の説が唯一の答えになってしまう

加えて、知識や常識、定説は固定されたものではなく時代とともに動くという当たり前のことがわかっていれば、「どのような説であっても、いまのところそうかもしれないということだ」、つまり「“かも”の話は“かも”である」と冷静に判断できるはずです。

しかし、属人思考にはまってしまった場合には、残念なことにその人の説が唯一の答えであると確信してしまいます。そして、与えられた答えに従っていればいいわけですから、自らの思考活動は停止します。

また、たとえ異論反論が寄せられても、これに耳を傾けることができません。それを受け入れることは、信仰心を自ら裏切ることになるからです。

ターゲットとなる顧客のイメージ
写真=iStock.com/Jirsak
※写真はイメージです

自分にとって好ましくない意見はノイズとなり、異論を唱える人を攻撃・差別・排除したりするということも起きます。

世の中に遍在するさまざまな説や考え方に触れることは、いい刺激にもなりますし、思考を深めるきっかけになります。

しかし、自分が好意的に捉えるある特定の人物、ある特定の説ばかりを深掘りして勉強したつもりになっても、多くの場合、その説をなぞっているだけで思考しませんから、決して賢くはならないのです。

これが、「勉強するとバカになる」という現象のあらましです。