20年間の婚姻生活にピリオドを打ち、実家に戻ってきた40代の娘。80代半ばの両親が住む家は完全なゴミ屋敷だった。ゴミの中には大量の新品のフライパンや鍋がなぜか50個以上もあり、冷蔵・冷凍庫3台には5年前の食材がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。コロナ禍で帰省しなかった2年の間に親に何が起きたのか――。(前編/全2回)
パイを食べている男性
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この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹の有無に関係なく、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

変人の父親

中部地方在住の白馬吉子さん(仮名・40代)は、メーカーに勤める父親と服飾関係の仕事をする母親の元に生まれた。両親はもともと同じ職場で出会い、24歳で結婚。白馬さんは、父親が39歳、母親が38歳の時の子で、2歳下に弟がいる。

父親は5人兄弟の次男。白馬さんいわく、堅物で友だちが一人もいない変人で、真面目を絵に書いたような人だが仕事はできず、神経質で凝り性だった。

なかなか子どもに恵まれなかった両親は、不妊治療を受けながら毎年神社に子宝祈願もしていた。そこまで熱心に子どもを望むとは、さぞかし子煩悩な父親なのかと思えばそうでもない。父親は子育てには関心を持たなかった。

成長してから、両親は子どもができるまでは夫婦で日本各地を旅していたと聞いた白馬さんは、母親に「お父さんとの旅行、楽しかった?」とたずねると、「全然。美味しいもの食べるわけじゃないし、お土産も買わないし、何しに行ったか覚えてない」と答えた。

お金や時間を使ってわざわざ遠くまで旅行に行き、美味しいものも食べずお土産も買わないとなれば、確かに何しに行ったのかわからなくなる。

白馬さんが小学校に上がると、父親がリストラに遭い、無職に。代わりに母親が早朝から働き、家のことは父親がするようになる。

「その頃、朝食は父が準備してくれたのですが、毎日毎日ひたすらウインナー数本と目玉焼きでした。面倒という感じではなく、父には同じもので飽きるとか、違うものを出すという発想自体が無かったのかと思います」

父親は、約半年後に配送業の仕事が決まった。

「父は、たまに自分の実家に帰ると饒舌になるんですが、父にとっての楽しい話は人をばかにした話で、自分の娘である私の失敗談などを私の前で親戚中に話していました。もちろん父から褒められたことはありません。子どもの頃はいつも『お前はバカだ。ろくでもない』と言われていました」

他人をバカにする割には、父親は自分の言動にケチを付けられるとすぐにキレ、自分の思い通りにいかないと怒った。

白馬さんは中学に上がると、巻爪の悪化のため手術を受け、しばらくギプスをはめ、松葉杖をついて登校していた。そんな頃、一度だけ雨の日に「車で送って行ってくれない?」と父親に頼んだところ、意外にも「7時半までに準備しろ!」と面倒臭そうに答えた。

しかし、たった1分遅れただけで手が付けられないほど大激怒。それでも何とかなだめて車で送ってもらった。

また、父親は食事のときにクチャクチャ音を立てて食べる“クチャラー”。たまりかねた白馬さんが、「お願いだからやめてくれない?」と頼むと、案の定「うるせー!」と憤慨し、激昂。それ以来、毎日食事のたびにわざとクチャクチャ音を立てて食べるという子どもじみた嫌がらせをされ続けた。