紫式部はどんな家庭で育ったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「幼いころに母を亡くし、父・藤原為時に育てられた。為時は漢籍や和歌などの学識は高かったが、不器用で処世術には長けおらず、貴族の家庭環境としては恵まれていなかった」という――。
NHK大河で繰り返し父の不遇が描かれる
紫式部の内省的な性格は、常識的に考えれば、家庭環境の影響を受けている。NHK大河ドラマ「光る君へ」でも、父の藤原為時(岸谷五朗)がいかに不遇であったか、繰り返し描かれている。第1回「約束の月」(1月7日放送)から、為時が不遇であることがドラマの中心軸に据えられていた。
為時は安和元年(968)に播磨権少掾に任ぜられている。播磨国(兵庫県南西部)の三等官だから、たいした官職ではないが、4年の任期が終わってからは、無官(官職についていないこと)の六位として過ごしていたようだ。六位とは、当時の貴族社会において正一位から少初位下まで30階級に分かれていた位階のうち、15番目以下だった。
とはいえ、ぎりぎり貴族と認められる地位ではあったが、無官になると収入が途絶えて生活は苦しかった。紫式部が生まれたのは、為時がちょうど播磨権少掾の任期を終え、無官になった前後だと考えられる。
そこで「光る君へ」では、為時は除目(天皇が臨席する貴族たちの任官のための行事)に際し、式部丞(大学寮と散位寮を管轄する式部省の三等官)に任ぜられるように、自己推薦書を上程して必死に訴えていた。
残念ながら、それは叶わなかったが、右大臣の藤原兼家(段田安則)が、正式な官職ではないものの、東宮の師貞親王(本郷奏多、のちの花山天皇)の漢文の指南役に為時を推挙してくれた。
それまで為時の任官を神仏に祈願していた妻のちはや(国仲涼子)は、やっと夫が仕事を得られたので、娘のまひろ(子役は落井実結子、紫式部のこと)を連れてお礼参りに行ったが、帰途、竹林で馬に乗った藤原道兼(玉置玲央)に遭遇。飛び出したまひろに驚いて落馬した道兼は、割って入ったちはやを刺し殺してしまった。