大学出では出世できない

紫式部が幼いころに母親を失ったのは記録からも確認できるが、死因はわからない。したがって、道兼が彼女の母を殺したのは脚本家の創作だが、父親が不遇であったことが、紫式部の人格形成に影響をあたえたという視点は、的を射ていると思われる。

版画「古今姫鑑」より「紫式部」・月岡芳年筆
版画「古今姫鑑」より「紫式部」(写真=月岡芳年筆/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

もっとも、為時の血筋はけっして悪くない。四家ある藤原氏のなかでもとくに栄えた北家に属し、5代さかのぼると、正二位左大臣にまで昇った藤原冬嗣ふゆつぐであり、その次男が皇族以外の人臣ではじめて摂政に就いた藤原良房である。為時の祖父の兼輔も、従三位権中納言にまでは出世している。

とはいえ、同じ藤原北家のなかでも、代を重ねるごとに明暗が分かれ、いったんその他大勢になると、這い上がれないのが現実だった。

為時は、菅原道真の孫で大学寮(官僚育成機関)に属して詩文や歴史を教授した文章博士であった菅原文時の門下で、とりわけ逸材だったと伝えられる。しかし、いくら大学寮での成績が優秀でも、高位高官に結びつくものではなかった。

倉本一宏氏は「公卿の子弟などは父祖の蔭位(父祖の位階によって子孫も位階を叙される制度)によって元服直後に位階を叙され、官人に任じられたので、はなから大学などには行かなかった」と書く(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。大学に行かざるをえない身分では、たいした出世は望めなかったのである。

待ちに待った殿上人生活は2年で終結

さて、ドラマでは、為時がやんちゃな東宮師貞親王を指南し、苦労する様子が描かれたが、史実においても師貞と関わったことは、史料から確認できる。事実、その縁がもとで運がめぐってきている。

貞元2年(977)3月、為時は師貞親王の読書始で、講師を補佐して復唱する役である尚復しょうふくを務めており、それを機に、師貞を指南する機会がほかにも得られたのかもしれない。

永観2年(984)8月27日、円融天皇が退位し、師貞親王が花山天皇として即位すると、為時は六位蔵人に任ぜられたようだ。律令制のもとでは、六位は法的には貴族と認められない下級貴族だったが、蔵人は天皇の秘書的な職務なので、為時は六位ながらも殿上人として天皇の側近くに仕えるようになったのである。

それからは、藤原実資の記した『小右記』にも、蔵人としての為時が花山天皇の意向により、各所で働くさまが記されており、久方ぶりの官職の仕事を順調に果たしていた様子がうかがえる。

しかし、花山天皇の時代はわずか2年足らずしか続かず、花山の退位とともに為時の運命もまた暗転してしまう。