不器用な父が紫式部にあたえた影響

右大臣の藤原兼家、すなわち道長の父は、入内させた次女の詮子が円融天皇とのあいだにもうけた懐仁やすひと親王を一刻も早く即位させ、天皇の外祖父として権力を握ることを望んでいた。すでに58歳になっており、焦りもあったのだろう、寛和2年(986)6月23日、兼家は花山天皇を強引に出家させ、懐仁を一条天皇として即位させた。

すると為時は不遇の身に転落。天皇が替わるやいなや蔵人の官職を解かれ、それからは10年ものあいだ、無官の状態が続くのである。

その後について、前出の倉本氏は「詩会や内宴も含め、一切の史料に姿を現さないのである。あまりに花山やその側近に接近しすぎたことが、兼家に疎んじられたためである」と書く(前掲書)。学識はあっても、不器用で処世術には長けていなかったようだ。

こうして為時はふたたび、まずしい暮らしのなかで学問や詩作に専念することになった。そうするほかになかった、ということだったと思われる。

倉本氏は「この為時の性格や生活態度が、幼年時の紫式部に少なからぬ影響を与えたであろうこともまた、疑いようのないところである」と書く。大河ドラマでその影響がどう描かれるか、脚本家の腕の見せどころであり、視聴者にとっては楽しみが膨らむところだろう。

さらにいえば、紫式部は藤原宣孝と結婚したとき20代も後半になっていた可能性がある。当時としては晩婚で、それも為時が無官だったことと関係がある。当時の結婚は、男性が婿として妻の家に入るものだったので、為時が無官で後見を期待できない以上、その娘と結婚したがる男もいなかったのである。

詩人としての評価は高いが

為時が再度任官するのは、藤原道長が政権を奪取してからだった。長徳元年(995)、疫病が流行して、関白の道隆、道隆から関白を継いだ道兼の兄弟が相次いで死去した。このため弟の道長は急遽、5月11日に、太政官が天皇に上げた文書や天皇が下す文書を事前にみる内覧に任命され、続いて右大臣に任じられたのだ。

すると翌長徳2年(996)正月25日、はじめて道長が主導した除目で、為時は従五位下淡路守に任じられた。ただし、淡路(兵庫県淡路島、沼島)は当時、下国(四等級に分けられていた国のうち最下級のもの)とされていたが、その3日後、あらためて越前守に任じられている。漢詩文に通じる為時を、前年秋に来日し、日本との交易を求めていた宋国人と折衝させる目的だったと考えられている。

こうしてその年の秋、為時は越前(福井県北部)に赴任し、紫式部も同行している。ただし、紫式部は長徳4年(998)に帰京して藤原宣孝と結婚。一方、為時は長保3年(1001)までの任期いっぱい、越前守を勤め上げた。

しかし、帰京した為時を待っていたのは、あらたな任官ではなく、ふたたび無官の日々だった。その後も、為時が和歌や詩を献じた記録はたくさんあるので、詩人としての評価は高かったようだが、不器用が災いしてか、官職には恵まれなかった。