紫式部の文学性をつくった
次に官職を得るまでには8年を要し、寛弘6年(1009)に左少弁(太政官左弁官局の三等官)に、続いて寛弘8年(1011)、越後守に任ぜられている。しかし、為時はすでに60歳を超えており、越後(新潟県)まで赴くのは大変だったと思われる。紫式部が同行するわけにはいかず、ちょうど無官になった長男の惟規(のぶのり/これのぶ)が妻とともに同行した。
そして長和3年(1014)6月、任期を残して越後守を辞任し、長和5年(1016)4月に三井寺(滋賀県大津市)で出家した。このとき、もう70歳に近く、当時としては長生きだったが、藤原北家の人物としては、学識や詩才は評価されても、出世が命の貴族社会においては最後まで不遇だった。
その後、寛仁2年(1018)に藤原頼通邸に詩を献じた記録を最後に、消息はわかっていない。また、紫式部も没年はわかっておらず、為時が出家したのち、どのくらい生きたのかわからない。
だが、いずれにせよ、為時に学識があったおかげで紫式部は当代一の教養人となり、為時が不遇だったおかげで、内省的な性格が醸成され、するどい観察眼が育まれたと考えられる。そうだとすれば、為時が出世できなければこそ、われわれのもとに最高の文学が遺されたといえるだろう。