その夜、イギリス軍は反撃に出て、飛行場近くまで迫ったが、夜明けとともにドイツ空軍の攻撃を受けて、撃退されてしまう。

潮目は変わり、戦運はドイツ側にまわってきた。

もっとも、二十一日の夜から翌日の朝にかけて、海上から護送船団によってクレタ島に増援の山岳猟兵部隊を送り込む試みがなされたけれど、いずれも英海軍によって撃退された。ドイツ軍は空を制してはいたものの、海上はまだイギリス軍のものだったのだ。それゆえ、ドイツ側は、いよいよ航空機による増援・補給に頼らざるを得なくなった。

ここまでみてきたように、「メルクーア」作戦は必ずしも、経空攻撃だけでクレタ島を占領することを企図していたわけではない。だが、こうした状況に追い込まれたためにそうするしかなくなったのである。

精鋭部隊3000人が犠牲に…ドイツ軍が支払った大きな代償

作戦目標のクレタ島を占領したという点では、「メルクーア」作戦は成功したといえる。

大木毅『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)
大木毅『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)

だが、ドイツ軍が同島を戦略的に活用することはついになかった。「メルクーア」作戦終了から三週間後の六月二十二日、ドイツがソ連に侵攻したためである。東地中海のイギリス軍の海上交通、あるいは北アフリカの連合軍拠点に脅威を与えるはずだったドイツ空軍の主力はロシアに投入されてしまい、クレタ島の航空基地や港湾は二次的な重要性しか持たなくなってしまった。

にもかかわらず――この島を得るために、ドイツ軍が支払った代償はきわめて大きかった。志願兵を集めて猛訓練をほどこしたエリート、降下猟兵のおよそ三千名が戦死、もしくは行方不明となったのだ。

あまりの損害の大きさに驚いたヒトラーが、以後大規模な空挺作戦は実施しないと決定したのも当然であろう。シュトゥデント自身の言葉を借りれば、「クレタ島は、ドイツ空挺部隊の墓場」だったのである(前掲『空挺作戦』)。以後、ドイツ降下猟兵は、優良な歩兵部隊としてしか使われなくなった。

クレタ島・空挺部隊員の墓標
クレタ島・空挺部隊員の墓標(写真=連邦公文書館/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons

かかる凄惨せいさんな結果は、空挺作戦が宿命的に持つ危険性が極大化されたかたちで現出したものとみることもできよう。さりながら、シュトゥデントの指揮官としての能力不足が、その危険を増幅させたことも否定できないように思われる。

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