ナチス・ドイツの最後の防壁となった「ライン川」
レーマーゲンは、まことに小さく閑雅な町で、駅から十分も歩けば中心部を通り抜けてライン川に至り、箱庭細工のように見える東岸のありさまを一望できる。かつて、そこにはルーデンドルフ橋が架かっており、両岸を結ぶ通路となっていたのだが、今日でも、そのなごり、橋塔が博物館となっており、昔を偲ぶよすがとなっている。
だが、八十年近く前、この風光明媚な町は最前線になろうとしていた。ノルマンディに上陸し、激闘を繰り返しながらフランスやオランダ、ベルギーを横断してきた連合国の遠征軍が、ついにドイツ本土への進攻を開始したのである。
これを迎え撃つドイツ軍は前年、一九四四年十二月に発動されたアルデンヌ攻勢に失敗し、戦略・作戦レベルの抵抗力を失ったも同然であった。彼らにできるのは、消耗・疲弊しきった既存部隊と、泥縄式に編成された「国民突撃隊(フォルクスシュトゥルム)」で薄い防衛線を張るか、拠点防御を実行する一方、ごく少数の、戦力を残していた予備部隊で、機会をつかんでは局所的な反撃を加えることぐらいだったのだ。
ゆえに、西部戦線のドイツ軍は、最後の防壁──ライン川に希望を託すほかなかった。スイスの山中に源流を発し、独仏国境地帯からオランダを通って北海に流れ込む、全長一千二百余キロの大河だ。
その流域も今や戦場になりつつあるが、そこに架かる大小さまざまな橋をすべて爆破してしまえば、「父なるライン」は連合軍のドイツ進撃を阻む巨大な水濠と化す。ドイツの川の王者を防衛線として、それを死守すれば、第三帝国の延命も夢ではなく、その間に政治的な解決を可能とするような状況の変化も生じるやもしれぬ。
渡河の可否が戦争の勝敗を決める
一方、攻める連合軍からすれば、さような事態の生起は、なんとしても許すわけにいかなかった。ドイツ軍アルデンヌ攻勢によって惹起された「バルジの戦い」(一九四四年十二月~四五年一月)の勝利により、連合軍は勢いづき、ほとんど全戦線にわたって進撃しつつある。かかる衝力(モーメンタム)を失うことなくドイツ本国に突入し、戦争の勝敗を決するには、迅速なライン渡河が必要不可欠なのであった。
こうした情勢下、連合国遠征軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー米陸軍元帥(一九四四年十二月二十日に戦時進級)も、従来の方針とは裏腹に、ライン渡河の重点を定めることを余儀なくされた。
これまでアイゼンハワーは、どこか一正面に戦力を集中するのではなく、戦線のほとんどすべてで圧力をかけて、不均等な攻勢を行なった場合に生じるであろう齟齬を回避しつつ進撃するという「広正面戦略」を採用していた。