「世界初の空挺作戦」が失敗に終わったワケ

一九四一年四月、ナチス・ドイツは、ユーゴスラヴィアとギリシアに対する戦争を開始した。強大な空軍の支援のもと、装甲部隊を先陣に立てて攻め入ったドイツ軍に、小国ユーゴスラヴィアとギリシアの軍隊、さらには、彼らを支援したイギリス軍も太刀打ちできず、なだれを打って敗走した。

ユーゴスラヴィアは約十日で制圧され、四月十七日に降伏する。ギリシア本土も二十日ほどで占領され、ギリシア政府は南のクレタ島に逃れる。

この電撃的な勝利を、切歯扼腕の思いで注視していた将軍がいる。ドイツ空軍のクルト・シュトゥデント航空兵大将、「降下猟兵(ファルシルムイェーガー)」部隊の創始者として知られた人物だ。

第二次世界大戦がはじまるや、シュトゥデントはその降下猟兵を率い、ノルウェーやオランダへの侵攻に際して空挺作戦を敢行、大きな戦果を上げた。いわば、降下猟兵のボスともいうべき存在である。

ドイツがバルカンに介入した時点では、第一一空挺軍団長に補せられていたシュトゥデントは、かかる経歴から、また、自らがって立つ降下猟兵という新兵科の利害を守るためにも、その存在意義を示さなければならないと考えていた。

これまでのような小部隊による奇襲にとどまらず、空挺部隊には戦略・作戦次元でも決定的な威力があることを証明するのだ、と。

ヒトラーはクレタ島攻略に積極的ではなかった

シュトゥデントはギリシア侵攻において空挺作戦を実行すべしと強硬に主張した。

実際、サロニカ付近やコリント運河の橋梁きょうりょうなどで、小規模な作戦は実施されたのだけれども、この程度では空挺部隊の真価が発揮されたとはいえない。しかも、一部の攻撃は失敗していた。シュトゥデントは、直属上官である第四航空軍司令官アレクサンダー・レーア航空兵大将(五月三日、上級大将に進級)に、空挺作戦の計画を矢継ぎ早に提案した。

エーゲ海中部のキクラデス諸島のうち、一つ、もしくは複数の島を占領するのはどうか。キプロス島やクレタ島は、空挺作戦の目標にするだけの価値があるのではないか?

シュトゥデントのたびたびの要請を受けたレーアは、一九四一年四月十五日、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥(「元帥」の上に特設された階級)に空挺部隊によるクレタ島攻略の計画案を提出した。

ゲーリングはクレタ島空挺作戦を支持した。ゲーリングはヒトラーのもとに、シュトゥデントと空軍参謀総長ハンス・イェショネク航空兵大将を派遣し、計画の説明に当たらせることにした。

四月二十一日、総統に面会したシュトゥデントは熱弁を振るった。ヒトラーは必ずしもクレタ島攻略に積極的ではなかったが、シュトゥデントに説得され、作戦実行を許可した。おそらくは、イギリス軍のクレタ島保持を許していれば、その航空基地から、ドイツの戦争継続にとって不可欠のプロエシュチ油田(ルーマニア)が爆撃されると危惧したのが決め手となったのではないかと推測される。ただしヒトラーは、準備期間が短くなるけれども、五月中旬には作戦を発動せよと条件を付けていた。

クレタ島に降下するドイツ軍空挺部隊
クレタ島に降下するドイツ軍空挺部隊(写真=連邦公文書館/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons