一九四一年四月二十五日、総統指令第二八号が下令される。

「東地中海における対英航空戦遂行の基地として、クレタ島占領を準備すべし(『メルクーア』作戦)」(Hitlers Weisungen für die Kriegführung 1939-1945, herausgegeben von Walther Hubatsch.)。

待ち構えていたイギリス軍

一九四一年五月二十日早朝、クレタ島西部の空は、鉄十字の国籍マークを付けた航空機の大群がとどろかす爆音に包まれていた。午前七時十五分、リヒトホーフェンの爆撃機編隊がハニアならびにマレメ付近に対する攻撃を開始し、イギリス軍の高射砲陣地を沈黙させる。

スダ湾でドイツ軍の爆撃を受けるイギリス船
スダ湾でドイツ軍の爆撃を受けるイギリス船(写真=帝国戦争博物館/PD-UKGov/Wikimedia Commons

この爆撃遂行中に、島の沖合で曳航してきたJu―52輸送機から切り離された、グライダー五十三機が突進し、マレメ飛行場の西に強行着陸する。グライダーから飛び出してきたのは、空挺突撃連隊第一大隊隷下れいかの二個中隊だった。

続いて、同連隊の第二、第三、第四大隊が落下傘降下にかかる。空挺突撃連隊を主体とする西部集団が第一波攻撃隊として、最初にクレタ島に殺到したのだ。

 しかし――着地直後、それどころか、落下傘降下中の宙に揺れているときから、彼らは激烈な銃火にさらされた。降下空域の地上にあったニュージーランド第五歩兵旅団は、圧倒的な光景に動じることもなく、堅固な陣地から降下猟兵たちに防御射撃を浴びせてきたのである。

多くの将兵が空中で戦死、もしくは負傷した。作戦初日にマレメ飛行場を奪取し、空輸により増援を運び込むという任務を果たすことは不可能になった。西部集団は、飛行場外縁部にたどりついたものの、イギリス軍の抵抗をくじくことはできず、攻撃中止を強いられる。

目標を一つも奪取できないドイツ軍

「奇襲」されたのはイギリス軍ではなく、降下猟兵の側であることはあきらかだった。ドイツ軍はそうとは知らぬまま、自分たちにはない重装備を持ち、数も多く、しかも防御陣地の有利を生かした敵を攻撃していたのである。

西部集団の第一波についていうなら、最初に降下した二千人弱はおよそ一万二千人の敵に対していた。これでは、彼ら、先陣を切った降下猟兵の半数ほどがたちまち死傷したというのも無理はあるまい。

 イギリス軍は、傍受した無線暗号通信を解読していたのに加えて、ギリシア本土に大量の輸送機が集結しているとの情報を得ており、ドイツ軍は必ずや空挺作戦を実行するものと判断していた。

それを受けて、クレタ島防衛軍の司令官、第一次世界大戦で英軍最年少の将官というレコードをつくったこともある、ニュージーランドのバーナード・フレイバーグ少将は、三カ所の飛行場を中心に強固な陣地を築いていたのだ。

その兵力も、ドイツ軍の予想をはるかに上回るものだった。ニュージーランド第二師団を基幹として、オーストラリア軍やギリシア軍の部隊を加え、およそ四万二千人の将兵を有するまでになっていたのである。

結局、「メルクーア」作戦初日に投入された第七空挺師団の諸部隊は、ただの一つも目標を奪取できず、流血を重ねるばかりだったのである。