織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠の合戦とは、どのような戦いだったのか。歴史研究家の跡部蛮さんは「最新研究によって信長が新戦法で武田軍を圧倒したとされる通説は覆されている。さらに、大敗した武田勝頼も再評価されつつある」という――。

※本稿は、跡部蛮『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)の一部を再編集したものです。

設楽原決戦場まつり(愛知県新城市)=2010年7月4日
写真=時事通信フォト
設楽原決戦場まつり(愛知県新城市)=2010年7月4日

「長篠の合戦」の通説は覆された

長篠の合戦(愛知県新城市)――織田信長が新兵器の鉄砲3000挺をそろえた鉄砲隊が待ちかまえる長大な馬防柵に、武田勝頼が無謀にも自慢の騎馬隊を突っこませ、多くの将兵を失って大敗した合戦として記憶されてきました。

しかも信長は、一発撃てば次の射撃までに時間がかかる鉄砲(火縄銃)の弱点を補うために射撃手が次々と変わる「三段撃ち」という新戦法を編みだし、彼を軍事的天才とする神話も作られました。黒澤明監督の映画『影武者』で、武田の騎馬武者が敵の一斉射撃によってバタバタと撃ち殺されるシーンは筆者の記憶に鮮明に残っています。

以上は、例の大日本帝国陸軍参謀本部編『日本戦史』が小瀬甫庵の『信長記』や『総見記』(17世紀終わりに『信長記』を参考にして書かれた信長の一代記)を典拠に、通説として確立させたことによる虚像です。その後、戦前の歴史家が受け継ぐ形で長い間、信じられてきた話ですが、歴史研究家の鈴木眞哉氏や藤本正行氏によって、その通説が覆されました。

『信長公記』に記されている鉄砲の数は1000挺

まず当時の鉄砲の性質や射撃の技術からみて、鉄砲三段撃ちというのは不可能であること。そして3000挺という鉄砲の数にも疑問が投げかけられました。史料的価値が高い太田牛一著『信長公記』(刊本)には1000挺と記載されているからです。ただし同じ『信長公記』でも、牛一自筆の岡山大学附属図書館所蔵池田文庫本には「鉄砲千挺」と書かれた右上に「三」と書き加えられ、「三千挺」へ訂正されています。

一般的にはこの訂正は牛一自身の手によるものでなく、後世の人の加筆だとされています。いったん「千挺」と記載した彼がその誤りに気づき、訂正した可能性も残っています。それでも筆者は刊本の『信長公記』にあるとおり、信長が家臣の佐々成政や前田利家ら五人を奉行に編成させた足軽鉄砲隊に預けた鉄砲は1000挺だったと考えています。その後、ほかの部分での見直しも進みました。