信長が着陣してすぐに動かなかった理由

その陣地は石座山の織田陣地のほか、現存する遺構から弾正山(徳川陣地推定地)などに及び、それはもはや陣地という概念を越え、「陣城」(戦場における臨時の城)であったとされたこともありました。しかし、弾正山などに残る遺構の多くは明治以降の開墾の跡という結論がだされ、陣城説は否定されるようになりました。それでも信長が、馬防柵を含めて設楽ヶ原を前に土塁などをもうけて陣地を築いていたのは事実です。

跡部蛮『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)
跡部蛮『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)

この信長の動きは勝頼の目に、どう映ったのでしょうか。勝頼は、戦況を心配する国元の家臣へ、「敵(織田・徳川)はてだてを失い、ますます逼迫ひっぱくしている。彼らの陣へ乗り懸け、信長、家康両敵ともに、このたび(討ち取って)本意を達することができるだろう」といっています。すなわち敵はどう攻めたらいいか策に窮して後方に引っこんだまま出撃してこないから、これを機に宿敵の信長と家康を討って本懐を遂げることはさほど難しくないというのです。

戦況を心配する家臣への手紙だから威勢のいい言葉が並ぶのは当然としても、勝頼は本当に敵が臆して陣地の中に引っこんでいると考えていたのかもしれません。もちろん信長もそうした勝頼の思考は計算済みだったことでしょう。桶狭間の合戦の項でみてきたとおり、敵に油断させるのは信長の戦術の基本のように思えます。

※ 清洲同盟=信長の居城清洲城(愛知県清須市)で結ばれたため、この織田・徳川同盟をこう呼ぶ。ただし、この同盟については見直しが進み、まず清洲城で信長と家康の両者が揃って会盟したという話に疑問が呈され、同盟の内容もこのときにすべて成立したわけではなく、順次、拡大していったという解釈が主流になっている。

《主な参考文献》平山優著『検証 長篠合戦』(吉川弘文館)、名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣)、鈴木眞哉著『戦国軍事史への挑戦』(歴史新書y)、同著『戦国「常識・非常識」大論争!』(同)、藤本正行著『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』(同)、小口康仁著〈「長篠合戦図屛風」の展開〉(中根千絵・薄田大輔編『合戦図 描かれた〈武〉』〈勉誠出版〉所収)、拙著『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』(双葉新書)

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