1572年、徳川家康は侵攻してきた武田信玄と三方ヶ原で対決した。この「三方ヶ原の戦い」は、家康の生涯で唯一の敗戦といわれている。歴史評論家の香原斗志さんは「戦国最強といわれる武田信玄が立てた計画は完璧だった。信玄があと1年でも長生きしたら、徳川の世は訪れなかっただろう」という――。
高野山持明院所蔵「武田晴信(信玄)像」
高野山持明院所蔵「武田晴信(信玄)像」〔写真=『風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師』(NHKプロモーション 編)より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

信玄が家康に抱いた「三ヶ年の鬱憤」とは何か

戦国時代にはひとりの武将の死が天下の分け目になったことが何度かある。そのなかでも大きいのが、本能寺の変による織田信長の死と並んで、武田信玄の死だと思われる。

アカデミズムの世界では歴史に「もしも」はないといわれるが、もし信玄が長く生きていたら、徳川家康の命は安泰だったかどうか。信長にしても、本能寺の前にどうなっていたかわからない。それくらい信玄には勢いと力があったのである。

武田信玄が家康の領国である遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)に向かって甲府をたったのは、元亀3年(1572)10月3日のこと。出馬に際して、信玄は三河の豪族、奥平道紋(貞勝)への書簡に「明日国中へ進陣、五日之内越天竜川、向浜松出馬、可散三ヶ年之鬱憤候」と書いている。

「国中」とは遠江の見附のこと。その地に陣を進め、5日以内に天竜川を渡って浜松に向かい、3年の鬱憤うっぷんを晴らすというのだ。「三ヶ年の鬱憤」がなにを意味するかは追って確認するとして、信玄のただならぬ気迫が伝わってくる。

だが、そもそも、家康と信玄の関係はどこでどうこじれたのか。

きっかけは上杉謙信との同盟

きっかけは永禄11年(1568)にさかのぼる。信玄は今川氏と同盟を結んでいたが、今川氏真は信玄が信長と同盟を結んだことに不信感を抱き、信玄の宿敵、越後(新潟県)の上杉謙信と同盟交渉を開始。それは信玄にとって、今川攻めの格好の口実になった。

同年12月、信玄は今川氏の領国に侵攻し、その際、家康も同時に行動を起こした。両者は密約を結んだのだ。今川氏の領国はそれぞれ「切り取り次第」ではあるが、おおむね大井川を境に、駿河(静岡県東部)は信玄、遠江は家康が領有をめざすことになった。

ところが、すぐに信玄の重臣の秋山虎繁が大井川の西側の遠江に侵攻。信玄のこの「裏切り」に対して、家康は強い不信感を抱き、さっそく年明けには上杉謙信との接触を試み、元亀元年(1570)10月には、武田氏に対抗することを目的とした同盟を結んでいる。

謙信との同盟成立は信玄が家康の領国に侵攻する2年前だが、静岡大学名誉教授の本多隆成氏によると「前近代では『足かけ』で数えるのが原則とみられる」ので、ちょうど3年に該当するという(『徳川家康と武田氏』吉川弘文館)。

信玄としては、ともに今川領国に侵攻したときの軋轢を引きずりつつも、とりわけ家康が自分の宿敵、謙信と同盟を結んだのが許せず、それが「三ヶ年の鬱憤」になったようだ。

また、歴史学者の平山優氏はそこに「彼(家康)を規制しない信長の不誠実さ」を挙げる(『徳川家康と武田信玄』角川選書)。したがって、矛先は家康と同時に信長にも向けられることになった。