徳川家康と正室・築山殿の夫婦関係はどんなものだったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「家康は正室と同居することを拒み、築山殿も家康に強い恨みと嫉妬心を抱いていた。決して大河ドラマのように仲睦まじい夫婦ではなかった」という――。
徳川家康(左)と築山殿の肖像
徳川家康(左)と築山殿の肖像(図版左=狩野探幽筆/大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons、図版右=西来院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

決してラブラブではなかった夫婦関係

現在までのところ、徳川家康と正室の築山殿はとても仲睦まじい。ラブラブだといっても差し支えない。NHK大河ドラマ「どうする家康」での話である(ドラマ内での築山殿の呼び名は瀬名)。

家康は終始、築山殿に気をつかい、その背景に彼女への深い愛情があると感じられるので、視聴していて微笑ましい。2人の関係が崩れずにいてほしい、と願ってしまう。

だが、そんな描き方が史実の2人とかけ離れているとしたら、それはそれで興ざめではないだろうか。大河ドラマはフィクションかもしれないが、一定の史実をもとにしていることはNHKも認めている。実際、脚色こそされていても、おおむね史実を踏まえているというのが、多くの視聴者の認識であり、期待するところではないだろうか。

さて、築山殿だが、彼女についてわかっていることは、さほど多くはない。しかし、限られた史料と、さまざまな歴史的状況から勘案するに、家康との関係がラブラブだったとは、とても思えないのである。彼女の来歴をたどりながら、家康との関係性について、推察もまじえて記してみたい。

本当の名前は誰にもわからない

家康(元信から元康、家康と改名するが、ここでは家康に統一する)が築山殿と結婚したのは、弘治2年(1556)正月だったとされる。家康が15歳、築山殿も15~17歳ぐらいだったようだ。

築山殿とは、『松平記』をはじめとする江戸時代の複数の史料によれば、彼女が住んでいた場所に由来する呼び名で、じつは、実名はわかっていない。「瀬名」と呼ばれていたことを示す史料も存在しない。

父親は今川義元の重臣の関口氏純。以前は、築山殿は今川義元の姪だといわれることが多かったが、現実には、義元の娘婿だったのは関口氏純の兄の瀬名貞綱で、兄弟が混同され、誤解が生じたらしい。

とはいえ、関口家は今川家の親族で家臣団のなかでも家格が高く、その娘を娶ったということは、家康もいわば今川家の親族衆として、尾張の織田家に対抗することが求められていたということになる。むろん、家康もそれを受け入れていたはずである。

だから結婚した当時、駿府で暮らしていた家康と築山殿は、本当にラブラブだったのかもしれない。事実、永禄2年(1559)3月に長男の信康(幼名は竹千代)が、おそらく翌永禄3年には長女の亀姫が産まれている。