「瀬名奪還作戦」はなかった
しかし、永禄3年(1560)6月の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を斃すと、この夫婦をめぐる状況も大きく変わっていった。
家康は本来の居城である岡崎城に入って、駿府には戻らなかった。もっとも、それにまつわる事情は、近年、研究が進んでこれまでの通説が否定されていることも多いので、有力な新説にもとづいて記したい。
まず、家康は義元の嫡男の今川氏真に、すぐに反旗を翻したわけではなかった。当初は今川に逆らっての岡崎入城ではなく、家康の岡崎入りを氏真も了承していたようなのだ。したがって、築山殿と亀姫は駿府に残されず、すぐに岡崎に移った可能性が高い。
「どうする家康」では、2年後の永禄5年(1562)、生け捕りにした鵜殿長照の2人の息子と交換に、家康が妻および長男と長女を、今川氏真のもとから奪還する場面が描かれた(第5回「瀬名奪還作戦」2月5日放送)。ところが、このとき奪還したのは長男の竹千代(のちの信康)だけだった、というのである。
また、これまでは家康が築山殿らを奪還したのち、彼女の父の関口氏純は切腹させられたため、築山殿は家康を深く恨んだ、と語られることが多かった。ところが、氏純は所領の一部を奪われはしたものの、少なくとも永禄9年(1566)までは生きていたことが確認されている。
だが、いくら通説が否定されても、家康と築山殿が不仲だったことを否定する材料としては不足がある。
なぜ一緒に暮らさないのか
前述したように、築山殿とは彼女が住んでいた場所に由来する呼び名で、たとえば『松平記』には「彼の御娘家康の御前は三河へ御座候て、つき山と申す所に御座候、是をつき山殿と申し奉るなり」と記されている。
要するに、駿府から岡崎に移った家康の正室は、岡崎城には入らず、城外の築山という場所に住んだので築山殿と呼ばれた、というのだ。
これをどう解釈すべきだろうか。三河の領主であるとはいえ、事実上、今川家に従属していた家康よりも、今川のいわば家門の娘である築山殿のほうが格上だったので、城とは別の場所に屋敷が用意された、という見方はある。が、一方で、家康が彼女を城内に入れずに城外の屋敷に住まわせた、という見方もある。
当初は今川氏真の了解のもとだったとしても、本拠地の岡崎に帰った家康にとって、今川の重臣の娘がそれほど格上としてあつかうべき対象だっただろうか。やはり、領国を統治する中核である居城に正室の居場所がない、ということへの違和感のほうが強い。