私の父は家康のせいで死んだ

ドラマでは、最初のうちは築山殿が岡崎城内にいて、彼女が築山に移ってからは、家康が頻繁に訪問している。しかし、築山殿が岡崎城内で暮らした記録はなく、家康が築山を訪ねたという記録もない。

そして不可解なのは、岡崎時代に家康と築山殿とのあいだに子供が1人も生まれていないことである。

駿府時代に2人の子が産まれているのだから、交渉があれば、その後も生まれて不思議はない。ところが、岡崎ですごした10年間に築山殿は子を1人ももうけていない。

家康は生涯に16人の子をもうけており、子供ができやすいタイプだったはずなのに、である。家康と築山殿の関係が冷えていて、交流も交渉もなかったからだと考えるのが自然ではないだろうか。この間、ほかの女性にもあまり手を出した形跡がない。それでも築山殿を遠ざけていたのだから、よほど仲が悪かったということだろうか。

築山殿は生まれてこの方、ずっと今川家の庇護下にあった。ところが、夫の家康はその今川家を敵に回し、結果として、築山殿は今川家とも実家とも絶縁状態になり、そのせいで父親は、すぐには切腹させられなかったにせよ、追い詰められることになった。

こうした状況は戦国の常だとはいえ、築山殿が家康を恨む動機に事欠かなかったのもたしかだろう。『松平記』にも築山殿の思いとして「我父ハ家康の為に命失ひし人」と記されている。

浜松城天守閣
浜松城天守閣(写真=SHIZUOKACITYperson/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

「御嫉妬はなはだしく」

そして、元亀元年(1570)9月、家康が浜松城に移っても築山殿は岡崎に残り、以後、この夫婦は生涯、別居することになる。

そのころ家康の長男の信康は、すでに信長の長女の五徳と結婚していた。そして家康が浜松に移る際、信康は岡崎に残ることになった。ドラマでは、築山殿は息子夫婦の仲が悪いのが心配で、見守るためにあえて岡崎に残る、という描き方になるようだ。

しかし、築山殿は曲がりなりにも家康の正室である。あらたな本拠に同行させてもらえなかったことに、彼女は不満を超えて屈辱を味わったとしてもおかしくない。

事実、家康は浜松に移ってから、側室とのあいだに子供をもうけるようになった。天正2年(1574)に次男の秀康、翌3年(1575)には次女の督姫が産まれている(ドラマでは篤姫は岡崎時代に生まれていたが、現在ではその10年後だったとされている。 黒田基樹『戦国大名・北条氏直』など)。

それに対して「築山殿の御嫉妬甚だしく」と記された史料もある(『中村家御由緒書』)。秀康を生んだのは、永見淡路守(三河知立神社の神主)の娘で、お万と名乗ったようだ。だが、浜松城に住むことは許されず、理由は築山殿の嫉妬だという。