もし信玄があと1年生き延びていれば…
こうなると信長包囲網も勢いづく。信長との関係が悪化していた将軍足利義昭は信長を「敵」と断じて挙兵し、これまで争っていた朝倉義景や浅井長政、大坂本願寺、さらには松永久秀らに御内書を送って信長の討伐を命じた。
信玄が遠江に侵攻した時点では、義昭は家康に御内書を送って心配を伝えていたのに、すぐに手のひらを返したのだ。それどころか、信玄にも使者を派遣して直接、連携を確認している。
もはや家康は、そして信長も絶体絶命――と思われたが、野田城を落城させたころには信玄の体調はかなり悪化していた。胃がんだといわれている。
もはや行軍に耐えられなかったようで、西に侵攻するかと思われながら北東の長篠城に進み、しばらく滞在したのち、甲府に引き上げる途中で53歳の生涯を閉じた。
この戦国最強といわれる武将が、あと1年でも長生きしたら歴史は変わっていたかもしれない。徳川の世は訪れなかったかもしれない――。それは同じ「もしも」という言葉で語る反実仮想のなかでも、あり得た可能性がかなり高い。そのくらい信玄は強く、家康はその死に九死に一生を得たのである。