三方ヶ原の戦いの真実
その後、信玄はまっすぐに浜松には向かわず、北上して11月上旬から二俣城を攻略。なかなか落城しないので水の手を断つ作戦に転じ、天竜川から水をくみ上げていた釣瓶縄を切って降伏させた。そして二俣城を武田方の城として修復したのち、12月22日の早朝に出陣した。
ただし、2万5000人ともいわれる武田軍は、浜松城に接近すると見せかけて、途中から西に向かって三方ヶ原台地に上がり、浜松は素通りして三河方面に進軍しようとした。なぜなのか。
籠城戦は時間がかかり兵力の損失も大きい。それよりは家康をおびき出したほうがよい、家康は打って出てくるに違いないと信玄が判断した、と解釈する研究者が多い。
加えて平山優氏は、信長の援軍が進撃してきた場合、浜松城の家康とのあいだで挟み撃ちになる危険性があり、それを信玄は警戒した、という見方を示す(『徳川家康と武田信玄』)。
事実、家康はおびき出されるように、信長からの加勢3000人を加えた1万1000人程度の軍勢で打って出た。なぜか。
なぜ家康は籠城しなかったのか
本多隆成氏は、信長との同盟関係があり加勢まで送ってもらいながら、武田軍をやりすごす選択肢はなかった、次々と武田方に降っていく遠江の国衆らをつなぎとめるためには、戦って存在感を示すしかないと判断した、などの理由を挙げる(『徳川家康と武田氏』)。
一方、平山優氏は、武田軍が堀江城に向けて動き出したのを家康が察知したから、という見解を示す。
西方に浜名湖、その北方に山間部が控える浜松城は、三河や尾張方面からの補給路が限られる。その点、浜名湖に張り出した半島の北側にある堀江城は、浜名湖水運および三方ヶ原方面の交通の要で、ここを攻略されると浜松城は封鎖されてしまう。だから家康は武田軍と戦わざるをえなかったというのだ(『徳川家康と武田信玄』)。
いずれにせよ三方ヶ原合戦で、家康は命を失いかねない状況に何度も見舞われ、生涯で最大の敗北を喫したのである。
だが、それで終わりではなかった。信玄は実際に堀江城を攻撃し、続いて浜名湖の北西方面にある三河の野田城を攻めている。
「野田城を攻略し、野田領を接収してしまえば、武田軍は信濃に通じる補給路を確保し、背後を気にせず、吉田城や田原城攻略に専念できることになる」(平山優『徳川家康と武田信玄』)。
信玄はあらゆる方向から浜松城への補給を遮断し、実際、元亀4年(1573)2月、野田城を落としている。これだけやりたい放題にやられながら、家康は手も足も出なかった。