信長の画期的な戦術は裏が取れていない
たとえば馬防柵です。合戦場となった設楽ヶ原(有海原ともいう)では連吾川が南北に流れ、西に織田・徳川連合軍、東に武田軍がそれぞれ陣し、地元の伝承では織田・徳川連合軍の前線全域にわたって長大な馬防柵がめぐらされていたことになっています(図表1「長篠の合戦の両軍布陣図」参照)。通説によると、その馬防柵も信長のアイデアで岐阜城(当時の居城)を出陣する際、兵士一人につき材木一本・縄一束を持たせたと江戸時代の史料に書かれています。
当時、柵や逆茂木(敵の侵入を防ぐために、とげのある枝や先端をとがらせた枝を逆さに立ててはりめぐらした垣根)を戦場で構築する際、材料を現地調達するのが常識でした。その意味では画期的な戦術といえますが、信用できる史料で裏が取れず、信長の独創性を強調する後世の作り話だろうとなっています。また、そのスケールは別にして、戦場に柵をもうけることそのものは戦国時代によくあることでした。
「無謀な突撃」とされた武田勢の評価は見直されている
このように新戦術を用いたとする信長の評価が下がる一方で、無謀な突撃を行ったとされる武田勢の見直しが図られました。
① 騎馬隊そのものの概念が再検討されていること。
② 織田・徳川方で鉄砲に撃たれて討ち死にした者がいることなどから、武田勢はただ騎馬での戦いにのみ頼ったのでなく、鉄砲隊が存在していた可能性があること。
③ 平山優氏は「合戦において、柵が敷設されていたり、多勢や優勢な弓・鉄砲が待ち受けていたりしていても、敵陣に突入するという戦法は、当時ごく当たり前の正攻法だった」(『検証 長篠合戦』)とした上で各史料を読みこみ、武田軍が柵を引き倒す用具を備え、たとえば、「縄の先端に鹿角や鉤をつけたものを柵に向かって投擲し、ひっかけて引き倒したことが想定」(前同)されるとしていること。
以上です。