信長は何としても家康を助ける必要があった

そして見直し作業は、この合戦の政治的背景にも及びました。

そもそも、この合戦が長篠の合戦と呼ばれるのは、武田勝頼が天正3年(1575)4月に徳川氏の領国三河へ侵攻し、同名の城を包囲したことにはじまるからです。勝頼の父信玄は、三河侵攻の途中で陣没し、武田軍はいったん軍勢を本国の甲斐へ引き上げました。その後、体勢を立て直し、勝頼は父の意志を継ぎ、遠江や三河での反攻を期していたのです。一方の家康はその勝頼に遠江の重要拠点、高天神城(静岡県掛川市)を奪われていました。

武田勝頼の肖像画〈武田勝頼妻子像 部分〉(図版=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
武田勝頼の肖像画〈武田勝頼妻子像 部分〉(図版=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

そういう情勢のなか、勝頼が奥三河にある徳川方の長篠城を包囲したのです。城は小城とはいえ、家康としては遠江の高天神城につづき、三河でも敵(武田)に拠点を作らせるわけにはいきません。三河・遠江全体の領国支配に影響を及ぼしかねないからです。

逆に勝頼は反織田勢力の足利義昭(15代将軍)や本願寺の一向一揆勢と連携し、三河に手を伸ばしてきたのです。こうして長篠城という小城の存在が一気にクローズアップされました。また徳川と同盟関係(清洲同盟(※))にあった信長は、勝頼の遠江侵攻の際に家康に軍事的支援をおこなう余裕がなかったため、徳川の本拠(三河)の長篠城救援のために何としても手を差し伸べる必要がありました。

合戦の主体はあくまで家康にある

このように信長は家康のために出陣したのであって、この合戦の主体はあくまで家康にあります。現に家康はこの合戦に勝ち、少しずつ武田勢を追いこんで、ついに天正9年(1581)に高天神城を奪い返すのです。

当時の徳川と畿内を制した織田との力の差は歴然としていましたから、家康が援軍を要請し、その結果、信長自身が出馬してきた以上、徳川勢は獅子奮迅の働きをみせる必要があります。ここにこそ、長篠の合戦の謎を解く鍵があると考えています。よって一般的に長篠は「信長の合戦」といわれていますが、筆者はあえて家康の項で取り扱うことにしたのです。

まずは5月21日に設楽ヶ原で決戦の火蓋が切られるまでの流れを確認しておきましょう。

勝頼は守兵わずか500の長篠城を1万5000の大軍で囲み、5月8日から猛攻を加えました。一方、織田・徳川側は15日に岡崎城で合流し、総勢3万8000の大軍となって、18日に信長が設楽ヶ原の西、石座山(茶臼山)(図表1「長篠の合戦の両軍布陣図」参照、以下同)に着陣します。しかし信長はすぐに動きませんでした。後詰めにやってきて、長篠城が落ちたら元も子もありません。なぜなのでしょうか。『信長公記』からは、信長が武田勢の猛攻に備え、陣地を築いていたことが確認できます。