なぜ姫路城は日本有数の名城となったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「羽柴秀吉が作った狭い土台の上に、その後の城主が最新の技術を駆使して次々に天守や櫓を建てた。その結果、建築物が重層的に重なり合い、唯一無二の美しさを持つ城になった」という――。(第2回)
※本稿は、香原斗志『教養としての日本の城』(平凡社新書)の第5章「姫路城」の一部を再編集したものです。
なぜ姫路城を美しいと感じるのか
姫路城は美しい。石垣とそのうえに建てられた白亜の櫓や門、塀が複雑に重なり合う重層的な景観は、ほかの失われた近世城郭の古写真や復元図と比較しても、唯一無二の美しさを湛えている。
とりわけ、立体的に重なる三棟の小天守に囲まれて大天守がそびえる姿は圧巻である。
だが、じつは姫路城の美しさは、ねらって生み出されたものではない。特別な美が誕生した理由を知るために、まず、この城の歴史をひもときたい。
幻になった信長の御座所プラン
姫路城の内郭の中心部は、本丸を中心とした標高45.6メートルの「姫山」と、西の丸があるやや低い「鷺山」から構成されている。姫山に城が築かれたことが文献で確認できるのは16世紀半ばで、城主は黒田重隆だった。豊臣秀吉に仕えた軍師、黒田官兵衛孝高の祖父である。
そして天正8年(1580)、2代のちの官兵衛が城主だったときのこと。
播磨国を平定し、いよいよ中国地方の毛利を攻めに出る羽柴秀吉に、官兵衛は、因幡街道、伯耆街道、但馬街道、京街道、そして室津街道がとおる交通の要衝で、中国攻略の拠点として望ましい姫路城を、無償で献上したという。
このとき、総石垣で天守がそびえ、多くの建造物に瓦が葺かれた織田信長の安土城は、すでに存在していた。黒田家が城を構えていた地に秀吉があらたに築いた姫路城も、広範に石垣が積まれ、3層4階の天守が築かれたと伝わる。
姫路城は信長が西国に出陣する際の御座所にも予定されていたというから、当然だろう。
天正11年(1583)、秀吉が大坂城に移ると弟の秀長が入り、続いて秀吉の正室おねの兄、木下家定の居城となった。しかし、いま見る姫路城は秀吉が築いたときの姿ではない。