自分の人生を主体的に生きるために
通勤中や仕事中、ずっとマスクをして過ごさなければならないとしたら、苦痛を感じて当たり前である。いや、たった10分でもキツいと感じる人はいる。
しかし「自分は花粉症だし、マスクをするのに慣れているから、長時間着けていてもぜんぜん平気」「マスクをすると落ち着く」「最初は違和感があったけど、もう慣れてしまったからそれほど気にならない」「メイクをしないでいいから楽」「ヒゲをそらないでいいから便利」といったことを安直に語り、「マスクくらい、ゴチャゴチャ言わずに着ければいいじゃないか」と私のようなマスク否定派に着用を促してくる人は非常に多い。
何が苦痛か、何が快適かは、人により異なる。それを理解しようともせず、マスクとワクチンを「大切な誰か」のために装着・接種するべきであると強要してくる人間は、実は極めて自己中心的であるといえる。私は何があろうとも「ゴキブリが怖い」と震えている人に向けて「ゴキブリが怖いなんて変だね。あんなもん、ただの虫じゃん」なんてことは言わない。コロナ騒動における「『大切な誰か』論法」は、こうした個々人の自由意思や個性を尊重せず、「感染対策のためならば人としての尊厳を毀損してもいい」とする、実に人権無視の論法だったのだ。
ワクチンに感染予防効果がないことが明らかになったいま、2021年に猛威を振るった「大切な誰かのために」という論法は崩壊した。そのプロパガンダを絶叫し続けた人々は、ほどなく「あなたたち、よくも『大切な誰か』論法で私の身体をおかしくしてくれましたね」などと、ワクチン接種後の薬害に苦しむ人から猛反撃を受けることになるだろう。そうして、コロナ騒動で蔓延した「大切な誰か」の欺瞞が明らかになるに違いない。
人間、自主性が大事である。「自分がイヤだと思うなら、やらない」──改めて、主体的に生きる姿勢を強く意識しておきたいものだ。なぜなら、あなたの人生はあなたのものなのだから。
他人の幸せのために生きる人生などまっぴらだ。
・コロナ騒動以降、日本では「誰かのため」「大切な誰かを守ろう」といった言説がはびこるようになった。
・「誰か」の定義はあいまいすぎる。「誰か」って、誰だよ?
・実態がわからない「誰か」のために、利他的に行動することを強要されるのがいまの日本。それができなければ排斥されてしまう。
・「大切な誰か」論法は欺瞞である。早くそれに気づき、主体的に生きるべきだ。