タクシー運転手から釣り銭を受け取らない理由
善行に関連した「誰か」については、もうひとつ例を挙げておきたい。かつて、ジャーナリストの勝谷誠彦氏(故人)と一緒にタクシーに乗った時のことだ。当時、タクシーの初乗り料金は660円だった。ワンメーターで降りたのだが、勝谷氏は「お釣りはいらないです」と1000円札を渡して、タクシーを降りた。私がこの行動の理由を尋ねたところ、勝谷氏は次のように説明してくれた。
「淳ちゃんさぁ、あの運転手さん、今日だってイヤな客を相手にしたかもしれないだろ。そんななか、たかが340円だけど、あの運転手さんが少しでもよい気持ちになってくれたら、こちらもうれしいじゃないか。それで次の乗客に対して、丁寧に接することができるかもしれない。そうすれば乗客も気持ちよくなり、客先での会議でよい時間が過ごせるかもしれない。そんなふうにして、みんながちょっとした“よい気持ち”をつないでいくことができたら、きっと社会はよくなっていくと思うんだ」
この話を聞いてから、私も少しだけ勝谷氏の考え方を実践するようにしている。なんの手間もコストもかけていないが、たとえば「横断歩道を渡るとき、ちゃんと一時停止をしてくれたクルマには頭を下げる」といったことだ。横断歩道を渡ろうとする歩行者がいる際、クルマは一時停止をして歩行者の通行を妨げない──これは当然の交通ルールなのだが、あまりに破るドライバーが多い。だから、しっかり止まってくれたドライバーには感謝の意を伝え、その人がその後も一時停止をする気持ちになればいいと思っている。また、単純に相対評価として、一時停止した人はそれだけで「いい人」と思ってしまう面もある。
いずれにせよ、ほんの少しの気遣いで相手が気持ちよくなってくれるのであれば、安いものだ。とはいうものの、匿名で寄付をする人、勝谷氏のようにタクシーの釣りを乗務員に渡す人、横断歩道でちゃんと一時停止するドライバーとその行為に感謝する人は世間的には少数派だろう。
定義も範囲もあいまいなまま乱用され続ける「誰か」
ここで「誰か」と愚行・善行についての関係性に話は戻る。「誰か」に対しての言動は、愚行の場合はハードルが低くなり、善行の場合だとハードルが高くなる。「どうせ自分とは関係のないヤツが困るだけだし、オレがやったとバレないからな」とポイ捨てをするのは簡単だ。一方、1000万円もの寄付金をポンッと差し出して、見知らぬ誰かを救うような善行をするには、よほどの金持ちではないと難易度が高い。
「誰か」という言葉は、このように考えれば考えるほど袋小路に入ってしまう、解釈が非常に難しい単語なのだが、コロナ騒動では安易に使われ過ぎた。専門家やお上が誘導したり、指定したりした「よいこと」「人助け」「誰かを助けるための社会貢献」の文脈で盛んに「誰か」は持ち出され、定義や範囲もあいまいなまま乱用され続けた。私は「だからー! 『誰か』って一体誰なんだよ⁉」と混乱するしかなかった。
ここまで述べてきたような、禅問答的な思考の積み重ねを経て見えてきたのは、本来、「誰か」が指しているものの多くは「被害者になる可能性がある人」だった、ということだろう。一方で、見知らぬ「誰か」から善を受け取ることができた人はとても少ない。
それなのにコロナを経て、あまりにカジュアルな「誰かのために」という言説が日本社会にはびこり、定着してしまったのだ。実際問題として、善行が自然にできる人間など滅多にいない。にもかかわらず、ワクチンとマスクが「誰か」を守り、挙げ句の果てには「ワクチンを打つ人はヒーロー」という言説まで登場した。単語の用法や意味合いが時勢に即して変わることは自然な現象だが、ワクチン・マスクを含めたコロナ感染対策は「誰か」という言葉の意味を急激に変えてしまった。「誰かのために利他的になれ! 善行をしろ! それができないヤツはまともな人間ではない!」という道徳的規範かつ、バイオテロリスト予備軍撲滅キャンペーンになったのである。