自分にとっては善行でも、相手はそう思わないこともある

さらに、日本人には特殊な行動様式がある。「誰かにむしろ迷惑をかけてしまうかもしれない、かえって気を使わせてしまうかもしれないから、善行ができない」というものだ。これが事態をますます複雑にする。

その端的な事例が、電車の席を譲ること、そして飛行機で背の低い女性の荷物を収納スペースから取ることだ。高齢者に席を譲ろうとすると「いいです」と迷惑そうに返されることが少なくない。特に高齢男性に多いのだが、ろくに言葉も発しないまま仏頂面で手を顔の前で振り、拒否の意思だけを無愛想に示すのだ。飛行機の場合、明らかに背の高い男性が荷物を取るほうがラクだし早いのに、拒否される。コロナ絡みで「他人に自分の荷物を触られたくない」という忌避感が強まり、この善行のハードルはいっそう高くなった。

「高齢者、ケガをしている人、体調の悪そうな人、妊娠中の人、幼い子供を連れている人には席を譲りましょう」「困っている様子の人を見かけたら、荷物を取ってあげましょう」といったことは、社会通念上「よいこと」だとされている。でも、迷惑そうに拒否されることもある。もちろん相手には相手の都合や感情があるから、拒否されたとしても仕方がない。素直にこちらの提案を受け入れ、感謝してくれる人もいれば、「放っておいてくれ」「構うな」と明確に距離をとったり、否定したりする人もいる。つまり、どんなに自分にとっては善行であろうとも、相手がそれを受け入れないケースはあるということ。

皆、そんな意識のすれ違いや価値観の食い違いは「日常生活でよくあること」と理解しているはずである。なんなら「善行を押し付けてくるな」「オマエが善行をしようとするのも自由だが、こちらがそれを断るのも自由だ」などと、本来はポジティブな振る舞いであるはずの善行を認めず、それを断ったり否定したりすることを正当化するような論調すら存在する。「そうした個々人の感情を察するのも、大人の作法」「世の中にはいろいろな考え方の人がいる。そういうものとして、うまくこなしていくしかない」──大多数の人はそんなふうに考えて、世の中をまわしてきたはずだ。

存在するかわからない「誰か」に感謝なんてできない

そうした当たり前のスタンスが、コロナ騒動を経た日本では通用しなくなってしまった。「マスクを着けること、ワクチンを打つことのみが正義」となり、それに従わない者は有無を言わさず「悪」と認定する。しかも、その理由として挙げられるのが「大切な誰かを守るため」なのだ。まったく意味がわからない。何度でも言うが「誰かって、誰だよ?」としか思えないのである。

まったく接点のない人のためにマスクをし、ワクチンを打つ。それは善行だという。私は混乱する。「本当にそんなものが存在するかどうかわからない『ぬえ』のような『大切な誰か』のために、なぜまったく納得できていない自分が我慢や不自由を強いられなければならないのだ」と。「お天道様は見ているよ」とでも言いたいのだろうか。

果たして、常にマスクを着けている97%(あくまでも体感値)の人、ワクチンを打った約82%の人は、そうしたことで他人から感謝されたのだろうか? 少なくとも、マスクやワクチンを無視してきた私は、どちらにも感謝しない。なぜなら、私自身、両方の効果を一切信じていないからである。「感染対策を徹底してきた自分たちに、非常識な連中は感謝しろ」とでも言いたいのかもしれないが、それこそ知らない「誰か」に感謝しなくてはならないいわれはない。「お前らが自身の判断の下、専門家と政治家とメディアの言うことに一切疑問を抱くことなくマスクを着け、ワクチンを打っただけだろ? トイレットペーパーを買い占めるために行列を作る連中と同じだ」と、自己中心的な人々にしか思えないのだ。

ましてやワクチンについては「オレ様みたいな高額所得者の納めた公的なカネを使って、余計なものをタダで打ちまくりやがって!」「しかも、世界一の陽性者数を延々と記録し続けているだけで、まったく感染予防になっていないじゃないか」「おまけに、5回目接種を始めるとか、8回目接種まで準備するとか、一体どういうことだ?」「無料キャンペーンに並ぶような情弱に同情なんてするかよ」など、さまざまな感情が沸き立ってしまう。だから、感謝する気持ちが一切持てないのだ。

マスクとワクチン
写真=iStock.com/Michaela Dusikova
※写真はイメージです