「ワクチンを打っていない『誰か』が悪い」という設定

「大切な誰か」「大切な人」という言葉は、あまりにも範囲が広すぎる。家族・友人・親戚・同僚・上司・いつも行くコンビニの店員・いつも利用する駅の駅員・年金を受け取る際に対面する役所職員・スーパーで子供たちにおまけをあげるサンタクロース……。「大切な人・大切な誰か」という言葉は個々人の解釈に委ねられてしまう。

「いや、私にとって『大切な人・大切な誰か』は妻と友人、そして仕事仲間以外、存在しません。私自身は別にコロナ感染してもいいですし、重症化しても構いませんので打ちません」――これが私の本心だ。いたって正論だと思うのだが、日本社会では猛烈なバッシングが寄せられてしまう。「自分勝手」「公衆衛生の敵」「自己中心的」「バイオテロリスト」「殺人鬼」「協調性がない」などと評され、陽性者が出た場合には私も含め、マスクやワクチンを受け入れない人々のせいにされる。コロナが第8波になり、ツイッターなどのSNSではやたらと医療従事者が忙しさに悲鳴を上げているが、ここでも蔓延の理由として超少数派であるワクチン非接種者に矛先が向けられている。もはや、単なる八つ当たりではないか。ここでは有無を言わさず、「ワクチンを打っていない『誰か』が悪い」という設定こそ正義になっているのだ。

たとえば今年12月中旬、ワクチンに懐疑的なアカウント(A氏)と、マスクやワクチンの効果を言いはやす医師アカウント(B医師)とのあいだで、次のようなやり取りが発生した。本当は実際のツイートを引用したかったのだが、A氏の当該ツイートは削除されてしまったので、要点をかいつまんで紹介する。

〈A氏「『新型コロナを5類にすべき』と主張する人たちに向けて、『5類にしたらコロナを診てくれる病院がなくなるぞ』などと脅してくる医師がいる。でも『5類にすべき』とまともなことを言う人々は、コロナ程度で病院になんて行かない」〉

〈B医師「それなら、未接種者が軽症にもかかわらず救急車を呼ぶケースをなんとかしてほしい。やたらと多いのだが」〉

B医師の発言の根底にあるのは、専門家・政府・自治体が言い立てた「あなたと大切な人、どこかの誰かのためにワクチン接種を!」が100%真理である……という凝り固まった考え方だろう。要は「救急車の出動回数が多いのは未接種者のせいだ」と主張したいのだ。そしてこのツイートは暗に「誰かのためにワクチンを打たなかった反社会的な連中は、病院を受診するな」と訴えているのである。

「誰かのため」は強権的、全体主義的な恐怖のフレーズ

だが、このB医師の発言は本当なのだろうか? 何しろ非接種者(「未接種」ではない。なぜならわれわれは打つ気がないから)は少ない。第6波以降、2回以上接種した人の陽性率が非接種者よりも高いというデータをまず無視している。さらに、非接種者は軽症で病院など行かない。コロナ陽性者にされたらたまったものではないことを理解しているからだ。ましてや救急車なんて呼ぶわけもない。

救急車を呼ぶ人間は圧倒的に高齢者が多い。それはデータ上も明らかだ。総務省が発表した2021年度の統計によると、救急車搬送人員の年齢区分別構成比は、新生児0.2%、乳幼児3.8%、少年2.9%、成人31.1%、高齢者61.9%である。ワクチン3回接種済みの高齢者は91%を超えているわけで、B医師の述べた「未接種者が軽症であるにもかかわらず、やたらと救急車を要請するから迷惑」という話に対しては「あなたの感想ですよね」としか思えない。

こうした現象を振り返ってみると、「誰か」という言葉は個人の自由を奪う、脅しの言葉なのだとしか思えなくなっている。「誰かのために」というフレーズには、一見、親切心やヒューマニティに溢れていそうなニュアンスがある。しかし実態は「善行」「社会的によいとされること」に対して反論を許さず、差別を正当化するにも等しい「強要」と「理不尽な管理」の言葉だったのだ。さらに言うと、個々の価値観に基づく反論、思想は一切許さず、全体主義を加速させるフレーズでもある。実に強権的であり、恐怖しか感じない。