いま日本では「大切な誰かのために」という言葉がさまざまな場所で連呼されている。ライター・編集者の中川淳一郎さんは「『誰かのために』というフレーズには、一見、親切心やヒューマニティに溢れていそうなニュアンスがある。しかし実態は、個人の自由を奪う、脅しの言葉になっている」という──。

「誰かのため」を乱用する利他的民族・日本人

新型コロナ騒動下で頻繁に使われた単語がある。「誰か」だ。

用法としては「大切な誰かを守る行動を心がけましょう。県をまたぐ移動は控え、マスクを着用しましょう」「あなた自身、そして大切な誰かを守るため、ワクチンの接種をしましょう」「あなたの感染対策が大切な誰かを守ります」といったところか。「大切な人」のほうが出現頻度は高かったが、「誰か」という言葉もそれに負けず劣らず用いられた。

本稿では「『誰か』とは一体、誰だ?」という視点から、現代の日本社会のありようについて共に考えていきたい。最初に言っておくが、今回、私はコロナ騒動に限定した話をするつもりはない。人々が当たり前のように口にする「誰か」の背後には、極めて日本人らしい特質や心性が隠されている。そしてこの「誰か」という視点が、いかにして日本人の発言や行動を規定し、縛り付けているか、改めて考察する必要があると思ったのである。

日本人は一体いつの間に、ここまで「誰かのため」を乱発する利他的民族になったのだろう?──私のそもそもの違和感は、これだ。

私の知る大多数の日本人の(いや、日本人に限らず、人間の)本質は「まず自分が得をすることを最優先に考える」「損はしたくない。少しでも有利な方向に身を置きたい」というものだ。どんなにキレイごとを並べたところで、そうした人間の自分本位な一面は隠しようがない。

思い出してみてほしい。限定品が発売されるとなれば「転売ヤー」が早朝から行列を作り、何らかのキャンペーンで「一杯無料」なんてサービスが始まれば大勢の人々が店に群がってきたではないか。2021年9月、かっぱ寿司で「全皿半額キャンペーン」がおこなわれた際には、20時間待ちという常軌を逸した待ち時間まで発表された。まあ、人間なんてそんなものなのである。

マスクやトイレットペーパーを買い占めた人々

2020年3月、コロナ騒動が始まった直後には、店頭でもネットショップでもマスクの品切れが相次ぎ、開店前のドラッグストアには高齢者を中心にして長い行列ができた。程なく「トイレットペーパーが不足する」という言説までも登場し、人々はさらに行列を長くして、トイレットペーパーをせっせと買い占めていった。小売店の棚からあらゆるトイレットペーパーが消え去り、「入荷未定」なんて貼り紙だけがむなしく揺れている……そうした異常な光景を覚えている人も少なくないだろう。

トイレットペーパーを抱える人
写真=iStock.com/Berezko
※写真はイメージです

これらはまったく「誰か」に配慮をしていない行動だ。人々が行列に並ぶに当たって意図したのは、あくまで「自分の安全・安心・快適」だけである。本当に「誰か」を大切にするのであれば、以下のような行動をとるはずではないか。

〈オレ、山田甚五郎は開店の4時間前、午前6時にドラッグストアに並び始めた。運よく、列のいちばん前だ。

そして開店40分前の9時20分、店員が「お一人様、マスクは一箱までとなっています。本日の入荷分と店内在庫は58点……こちらの方の分までで終了です。これ以上は並ばないでください」と告げた。マスクにありつけなかった客が騒然となる。59番目に並んでいた男は「えーっ!」と悲痛な声を上げ、いまにも泣き出しそうな勢いだ。

そこにさっそうと声をかけるのが、行列の先頭にいるオレ、山田だ。「いま『えーっ!』と言ったそちらのあなた、どうぞどうぞ。私は行列から外れますので、先頭にお越しください! あなた様のためにマスク、お譲りします。礼? 礼には及びませんよ!」〉

「誰かのため」を真に実践したいのであれば、このように献身的、利他的な姿勢を見せるべきなのである。超難関大学に合格したのであれば「補欠となった誰か」のために合格を辞退すべきであり、キャンペーン限定の豪華賞品が当たった場合には、メルカリやヤフオクで転売するのではなく、落選したことをツイッター上で嘆く人に連絡を取って「着払いでよければお送りしますよ!」と譲ってあげるべきだ。PS5といった希少ゲーム機を入手できたのであれば、店の外で「買えなかった~」と泣く子に無料であげるべきである。