新型コロナ対策としてのマスクの着用について、政府は3月13日から屋内・屋外を問わず「着用するかどうかは個人の判断が基本となる」としている。ライター・編集者の中川淳一郎さんは「政府の方針はわかりづらく、しばらく混乱は続くだろう。そもそも日本人は責任回避の意識が強く、物事を自分で決めようとしない。いい加減、そうした事なかれ志向から脱却すべきだ」という──。
マスクを着けている女性、群衆もマスクを着用している
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とにかく「決める」ことが苦手な日本人

日本人は、とことん「決定する」ことが苦手な人々だ。理由は、何かしらの決定をしてしまうと、その後の動向次第では自分に非難が寄せられてしまうからである。

とりわけ、斬新な案(見方によっては過激な案)や、実現の困難さが指摘されそうな案は、議論の俎上そじょうに載せられる前に引っ込めてしまうことが大半だ。良好な結果が出なければ「なんであんなに極端な案を採用したんだ!」「『難しいのではないか?』とオレは事前にさんざん言っただろ!」などと叩かれ、時には社会的に抹殺されてしまう。それを恐れて、何事も無難な方向へ収束させていく。

日本人は「和を以て貴し」を美徳とするあまり、何をするにも周囲の顔色をうかがう悪癖が抜けず、集団のなかで孤立しないために安パイばかり選んでしまう民族である。そうした風土があるので、冒険心に溢れたプランや急進的な案を採用して失敗した場合は猛烈に叩く一方、無難なアイデアを採用して失敗した際には「結果的に傷は浅く済んだ」「当時は、あれが最良の判断だった」などとなれ合い的に落着させてしまう傾向が強い。

マスクも然りだ。「マスク着用は個々人の判断」となった2023年3月13日、ツイッター上では「みんなマスク着けてる」「マスク率99%」といった報告が数多く見られた。「花粉症だからね」という一文がエクスキューズのように添えられたツイートも見られたが、日本人って99%が花粉症だったんか? 結局「他人の目」対策であろう。

私は今年2月10日に発表された「3月13日以降、マスク自由化」の報を受けて、「マスクを着けて家を出て、周囲の人々の様子を見てからマスクを外すか、外さないかを判断するだろう」「最寄り駅の改札を通る際には外していた人であっても、再度着用するだろう」と予想した。実際、そのとおりになったようだ。「他人の目」対策だけはバッチリである。

意志決定しても中途半端な結果で終わる理由

そもそも「意思決定」とは、誰かにとってはよい結果をもたらすが、別の立場の人にはあまり望ましくない結果をもたらすこともある営みである。ゆえに議論が必要になるのだが、この議論が「無難」「どちらの立場にも配慮」といった意識に支配されてしまうと、効果が最大化されなかったり、中途半端な結果で終わってしまったりする可能性が高くなる。

たとえば、ある課題を解決しなければならない場面で、Aの立場を取る人、Bの立場を取る人が、それぞれ同数いたとしよう。そこで「革新的な“プラン1”の方向に果敢に振り切ることができれば、全体的なメリットの値は90~100になる。だからこちらを採用しよう」という意見が出された。しかしこの意見に対して、別の人間が「何事も『振り切る』のはよくない。Aの人にはいいが、Bの人の一部は不利益を被る『かもしれない』から配慮が必要だ。禍根を残してはいけない」などと反論する。そうして最終的に「両者に配慮する」ことのみを念頭に置き、全体的なメリット値は60~70に下落するものの、とにかく無難な“プラン2”が最終的に採用される……といったことが、日本社会ではまま起こる。

“プラン1”を採用していれば、Bの人が受けるデメリットは最大でも10で済んだのに、“プラン2”を採用した結果、Aの人とBの人がそれぞれ15~20のデメリットを甘受しなければならなくなるとしたら、どちらのプランを採用するのが全体最適として合理的な判断だろうか。結局、「配慮」「無難」を優先するばかりに、「合理性」を犠牲にするのが日本人の意識決定なのだ。本稿では、ここまで述べたような日本人の意思決定パターンとプロセスについて考えてみる。