「マスク警察」活動に勤しんできたテレビ

最近、日本のテレビは街頭インタビューなどで「顔を見せるのが恥ずかしい」「マスクが当たり前になってしまったから、外すことに抵抗がある」「個人の判断になったとしても外さないと思う」といったことを語る人々をやたらと登場させ、マスク社会を終わらせないよう頑張っている。

メディア業界に身を置く私の想像ではあるが、メディア人というものは過去の論調を覆されたり、誤謬について指摘されたりすることを極端に嫌う。この3年間、テレビはマスクの効果にお墨付きを与え、マスクこそが「コロナとの闘いに勝利するカギだ」と触れまわってきた。さらに、飲み屋の客や自転車に乗る人を盗撮しては「アッー! マスクを着けていない人がいます!」などと積極的に「マスク警察」活動に勤しんできた。

緊急事態宣言に伴って飲食店が酒類の提供を中止した際、テレビはやたらと「路上飲み」を問題視していた。外で飲んでいる人々のところへリポーターが突撃し、「いま、マスクを外していましたよね?」などと詰問する映像をおぼえている人も多いだろう。テレビこそが最大のマスク警察だったため、このところ強まっている脱マスクの風潮を受けて「マスクを外す流れを阻止せねば」と考える向きもテレビ関係者に存在するのではなかろうか。腐ったメディア人だ。過ちはさっさと認めろ。貴殿らにメディアの仕事をする資格はない、卑怯者め。コロナ対応の趨勢はすでに決しているのだ。

テレビをオフにする手元
写真=iStock.com/Vlad Yushinov
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小役人のメンツに国民全員が付き合わされている

私はいま、日本の「マスク圧」のバカさ加減にあきれ果て、タイにいる。こちらでは、先ほど紹介したニューヨークタイムズのコラムにある指摘のとおり、「着用したい人はして、着用したくない人はしない」「他人はその判断に干渉するな」という空気感である。実に快適だ。そして、この空気感は日本においてもさっさと広まるべきである。

にもかかわらず、無難であること、波風が立たないことを旨とする過剰なまでの安全志向、そして「責任を取りたくない、責められたくない」という思考にとらわれた小者の跳梁跋扈ちょうりょうばっこにより、日本のマスク生活は「3月13日以降は個人の判断」という指針が示されても終わらなかった。

こうした状況を生んでいるのは、いまだにマスクの効果をうたい、安全策を取ろうと躍起になっている厚労省である。この期に及んでもまだ「いや、オレら、マスク外すのに全面的に賛成したわけじゃないから……」と逃げを打っている。国民の健康を司る省庁が「マスクこそ、至高のコロナ対策!」と激しく旗振りをしてきのだから、もはや撤回はできない。結局、小役人のメンツに国民全員が付き合わされているのだ。

というか、実態としては「素顔恐怖症」の人々に配慮をしまくっているだけである。クレームが怖いからだ。マスクを外した後に陽性者が増えた場合のことを想定し、「批判されないようにしよう」と保身に走っているだけである。着けたい人は着け続け、着けたくない人はさっさと外す。互いに干渉しない。それだけで終わる話に「ガイドラインガー!」などとウダウダ言い連ね、両方の人間に配慮したふうを装っているのだ。