マスク着用はこれまでも任意。これからも任意

「マスク着用の考え方の見直し等について」の発表後、東京都から飲食店や各種施設に以下のようなメールが届けられたという。

「マスク着用」の取り扱い等の見直しについて(令和5年3月13日から5月7日まで)

見直しのポイントは次のとおりです

・3月13日(月)から、マスクの着脱は個人の判断が尊重されることとなります。
・ただし、各店舗が感染対策上又は事業上の理由等により、お客様や従業員にマスクの着用を求めることは可能です。
・3月13日以降も引き続き、効果的な換気、手指消毒、距離の確保又はパーテーションの設置等、マスク以外の感染防止対策に取り組んで頂くようお願いします。

要約すると「マスク着用については個人の判断を尊重してね」「ただ、客にも従業員にも、施設側の判断で着けるよう求めることはできるからね」「今後も感染対策、頑張って」ということ。つまり、これまでと何も変わらなかったのだ。3月13日までもマスク着用は「任意」だったのだが、改めて「任意」であると明言されたにすぎない。「これまで任意だったけど、これからもやっぱり任意だよー」ということ。もはや茶番である。

もっとも、変わらないのは国民も同じだ。たまたま日本のテレビニュースを見ていた折、マスク着用が個人の判断になることを踏まえて、子どもを持つ親たちに意見を聞くインタビューコーナーが流れた。そこに登場した母親たちは「親としては、もう少し様子を見たい」「完全に安全になったと思ってからマスクを外させたい」といったことを語っていた。国民が万事この調子だから、社会の空気もなかなか変わらないのである。

中庸な落としどころにこだわり、東京五輪は無観客開催に

コロナに関連する最大級の「両方の顔を見る」判断は、東京五輪の無観客開催だろう。後に尾身茂・政府分科会会長は、『中央公論』(2021年11月号)のインタビューで「観客を入れても、私は、会場内で感染爆発が起きるとは思っていませんでした」と答えている。五輪実施を「普通ではない」とまで断じた男が一体どの口で言うか、である。

加えて、それでも無観客を要求した理由については「観客を入れたら、テレワークなどによって人と人が接触する機会を少なくしてほしいと国民に求めていることと矛盾したメッセージを送ることになります」と説明した。完全に科学者の発言ではない。まるで政治家のそれである。こんな男に日本はコロナ対応の舵取りを任せてきたのだ。

こうした尾身氏をはじめとした専門家やメディア、そして反政権派は「五輪を開催したら人が死ぬ」「東京五輪において、極悪ハイブリッド株が爆誕する」「世界中から人々がやって来てコロナを蔓延させ、東京はヒドいことになる」といった論を繰り出し、五輪を中止に追い込もうとした。そうしたなかで、両側の顔色をうかがいながらひねり出された中庸な結論が「無観客開催」だったのだ。

新国立競技場
写真=iStock.com/Ryosei Watanabe
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