なぜ日本の少子化は止まらないのか。解剖学者の養老孟司さんは「現代の人は、お金にならない自然は価値がないとして消していっている。先行きの分からない子どもも同じで、子ども自体には価値がないから投資をしなくなっているのだ」という――。

※本稿は、養老孟司『ものがわかるということ』(祥伝社)の一部を再編集したものです。

解剖学者の養老孟司さん
撮影=津田聡
解剖学者の養老孟司さん

学問をすると、自分が「違う人」になる

論語』の「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。朝学問をすれば、夜になって死んでもいい。学問とはそれほどにありがたいものだ。普通はそう解釈されています。でも現代人には、ピンとこないでしょう。朝学問をして、その日の夜に死んじゃったら、何の役にも立ちませんから。

私の解釈は違います。学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の見方がガラッと変わることです。自分がガラッと変わると、どうなるか。それまでの自分は、いったい何を考えていたんだと思うようになります。

前の自分がいなくなる、たとえて言えば「死ぬ」わけです。わかりやすいたとえは、恋が冷めたときです。なんであんな女に、あんな男に、死ぬほど一生懸命になったんだろうか。いまはそう思う。実は一生懸命だった自分と、いまの自分は「違う人」なんです。一生懸命だった自分は、「もう死んで、いない」んです。

変わりたくない人は知ることはできない

人間が変わったら、前の自分は死んで、新しい自分が生まれていると言っていいでしょう。それを繰り返すのが学問です。ある朝学問をして、自分がまたガラッと変わって、違う人になった。それ以前の自分は、いわば死んだことになります。それなら、夜になって本当に死んだからって、いまさら何を驚くことがあるだろうか。『論語』の一節は、そういう反語表現だというのが私の解釈です。正しいかどうかはわかりません。

確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。

でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていきます。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、「ああすれば、こうなる」というわけにはいきません。