帝国存続のカギは「言語の統一を無理に行わない」
【池上】エリザベートは「シシィ」という愛称でも呼ばれますよね。自由な気風が合った、といってもそこまでハンガリーに惹かれたのには、何か他にも理由があるのですか。
【増田】「シシィ」というのはあくまでもオーストリアでの愛称のようで、ハンガリーでは「エリザベート妃」と呼んでいますね。どうしてそのエリザベートがハンガリーを深く愛したのか。その理由の一つに、フランツ・ヨーゼフ1世の母親、つまりエリザベートからすれば姑のゾフィーが、大のハンガリー嫌いだったことが挙げられます。
当時、ハンガリー人はマジャール人と呼ばれていましたが、ゾフィーはマジャール人嫌い、さらには宮廷のしきたりにも厳格だったので、エリザベートとはそりが合わなかったんですね。姑から逃れるためにハンガリーに行っていた、というのもありますが、彼女にとっては心休まる場所だったのでしょう。ハンガリー語を話せるようになって、「ドイツ語ではできない、秘密の話ができるからハンガリー語が好きなのよ」と言っていたそうです。
【池上】1866年にドイツ統一の主導権を巡って、オーストリアとプロイセンで戦争が起こります。敗北したオーストリアはハンガリーの自治権を認め、1867年にオーストラリア=ハンガリー二重帝国ができます。
このオーストリア=ハンガリー二重帝国では、ハンガリーやスロバキアだけでなく今のボスニアやクロアチアも含む地域を治める多民族国家だった。しかし言語の統一は行わなかったんですね。帝国が存続するためには、「言語の統一を無理に行わない」「多数の言語の使用を許容する」ことが重要なんです。
「言語の使用を制限される」ことは国家間の決定的な対立につながる
【増田】自分の国の言葉を話せなくなること、奪われることは、生活や文化全てを否定されることにつながりますから、当然、強い反発を生みます。ヨーロッパの人たちが言語に敏感になるのはそういうわけで、だからこそ現代においても「言語の使用を制限される」ことが国家間の決定的な対立にもつながってしまうのでしょう。
ただ、オーストリア=ハンガリー帝国でいえば、1914年にはオーストリア大公夫妻が民族派に殺害されるサラエボ事件が起きて、第1次世界大戦の引き金となってしまいました。
ハンガリーはオーストリアとの二重国家であるとはいいながらも、実質的にはオーストリアのほうが強い立場にある中で、エリザベートが自らハンガリー語を話し、ハンガリーの文化を重んじた。このことが、ハンガリー人の心をとらえ、今も離さないんです。ハンガリー文化の発展や地下鉄などインフラ整備を夫に掛け合って、実現してくれたエリザベートへの感謝を抱き続け、今もカフェなどではエリザベートの肖像画が飾られています。