「方言ぐらいの違い」でも、アイデンティティーそのもの

【増田】チェコとスロバキアは1993年までは「チェコスロバキア」という一つの国でしたし、スロバキアの人がチェコの大学に通うようなことは、今でも普通にあるそうです。ただ、日本から見れば「方言ぐらいの違い」に見える言語も、現地の人たちにとってはアイデンティティーそのものです。

私がインタビューをしたスロバキア人は、ハンガリーとの国境近くで暮らす家族でした。「私たちは小さい国で、ハンガリー、チェコ、オーストリアに接しているから、ハンガリー語、チェコ語、ドイツ語を話せる人も多く、EUにも加盟しているから英語もできるに越したことはない。でも、そもそも100年ちょっと前までは、ここはハンガリーの一部で、私たち家族はハンガリー語で会話をしてきました。スロバキア人としては特別だと思われるかもしれませんが、私たちにとってそれがあたりまえ。生活習慣も文化も、歴史も、すべて言語を介して伝わってきているのだから、言語を大切にするのは理屈じゃないんだ」と。

【池上】言語を奪われる、使用を規制されるということは、生活習慣や文化、思考までを奪われ、規制されることにつながるんですね。

ハンガリーの言葉や文化を愛したエリザベート皇妃

【増田】今回、ハンガリーでは、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだバイエルン公女・エリザベート(1837-1898年)の取材もしてきました。その美しさや自由奔放な性格、暗殺される悲劇的な最期などから演劇やミュージカル、映画などの題材になることも多いエリザベートですが、その取材の過程でも、「いかに現地の言葉や文化を尊重することが重要か」を知ることになりました。

エリザベートはバイエルン生まれですから、元々はドイツ語を話していました。しかし1854年にフランツ・ヨーゼフ1世の元に嫁いでからは、流暢に喋れるまでにハンガリー語を習得し、ハンガリーの言葉や文化を愛し抜きました。彼女の出身地であるバイエルンは、嫁いだ先のオーストリアの首都ウィーンとは違って、自由闊達かったつな雰囲気がありました。そこで育ったエリザベートも、自ら馬に乗って狩りに出かけるような趣味を持っていましたから、元々の彼女の気質と、ハンガリーの文化や風土がすごく合ったようなのです。

ハンガリーの首都ブダペストの郊外グドゥルーにあり、エリザベートの夏の離宮として使用されていたグドゥルー宮殿。
画像提供=増田ユリヤ氏
ハンガリーの首都ブダペストの郊外グドゥルーにあり、エリザベートの夏の離宮として使用されていたグドゥルー宮殿。

彼女の「ハンガリー愛」がハンガリーの人たちにも伝わって、今もハンガリーの人たちはエリザベートが大好きなんです。通りや橋、ホテルに至るまで「エリザベート」の名を冠した施設がそこかしこにあります。一方で、フランツ・ヨーゼフ1世は全く人気がなく、むしろ嫌われているのですが。

エリザベートはハンガリーの首都ブタペスト郊外にあるグドゥルー宮殿を気に入って頻繁に訪れていました。この離宮にハンガリー舞曲の音楽家たちを招いてコンサートを開き、彼女自身も大いに楽しんでいたそうです。私もグドゥルー宮殿に行き、彼女が当時使っていた家具や鏡、彼女が当時ハンガリー語で書いた直筆の手紙を見せていただきました。

グドゥルー宮殿に展示されていた、馬を愛したエリザベートの肖像画。
画像提供=増田ユリヤ氏
グドゥルー宮殿に展示されていた、馬を愛したエリザベートの肖像画。