アメリカが作り上げた「日本分割案」の中身は…

ところが、「最後の一兵まで」を呼号する日本の情勢がどんどん悪くなって、降伏が早まりそうな形勢になってきた。そこで、ソビエトに焦りが出てきて、頻りにアメリカ政府をつつく。スターリンはトルーマン大統領に、ルーズベルトの無条件降伏政策をしっかりと守ってもらいたいということを、事あるごとに強調する。

それをアメリカが強硬な政策として掲げている間は、日本は容易に降伏できないから、戦争がどんどん延びるであろう、そうすれば、自分たちが十分な準備をととのえて対日参戦をして日本軍と戦う、それによって日本本土への進駐が容易になってくるであろうというもくろみがあったのである。

もちろん、アメリカも、頑強な日本陸海軍がそれほど早く手を上げるとは思ってはいないし、アメリカ軍の損傷をできるだけ減らしたいということで、はじめはソビエトの参戦を猛烈な勢いで督促していた。

そういう状況下で三省調整委員会が作り上げたのが、いわゆる日本分割案であった。日本を占領した後も、日本軍の抵抗およびゲリラはかなり活発に行われるであろうということで、第一局面として、日本降伏後三カ月間は、アメリカの軍隊八十五万が軍政を敷いて、日本軍の降伏が完全になるまで、日本本土をぴしっと押さえる。

日本の古い地図
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アメリカ、イギリス、中国、ソビエトが各ブロックを4分割

しかしながら、アメリカはもうすでに四年も戦っているから、八十五万の兵隊をいつまでも日本に置いておくわけにはいかない。第二局面、つまり三カ月が終わった以後の九カ月間は、アメリカ、イギリス、中国、ソビエトの四カ国が日本本土に進駐し、これを統治する。

兵力数は、アメリカ軍が三十一万五千、イギリス軍が十六万五千、中国軍が十三万、ソビエト軍が二十一万、合計八十二万の軍隊が、第二局面の九カ月間、日本本土を占領する。

第二局面で日本のなおつづくかもしれないゲリラその他の反抗分子は大体治まるであろうから、その後の第三局面、占領が終了して日本が平和条約を結んで国交を回復するまでの間は、アメリカが十三万五千、イギリスが六万五千、中国が六万、ソビエトが十万、合計三十六万の軍隊を日本本土に置いておく、このように軍隊の区分を決めたのである。

その場合に、日本本土を四つに分けて、関東地方と中部地方および近畿地方をアメリカ軍、中国地方と九州地方をイギリス軍、四国地方と近畿地方を中国軍──近畿地方は、アメリカ軍と中国軍が共同して押さえることになる──そして、北海道と東北地方はソビエト軍が統治する。さらに、東京は四カ国が四分割して統治するという。

こういう分割案が完成して、日本が最後まで頑張るならばこれを実施しようと正式に決めたのが、昭和二十年八月十六日。ご承知のように、日本は八月十四日にポツダム宣言の受諾を決定し、十五日に天皇陛下の放送をもって完全に戦争を終結しているから、なんと、終結の一日後にこの大分割案が完成したことになる。