1945年に敗戦した日本の処遇をめぐっては、米国、英国、中国、ロシア(旧ソ連)で分割統治する案があった。中でもロシアには、日本が降伏するタイミングで北海道に攻め入る計画があったという。なぜ実行されなかったのか。2021年に亡くなった作家・半藤一利さんの著作『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)から、一部を紹介する――。

※本稿は、半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)の一部を再編集したものです。

日本の最北端のモニュメント
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開戦直後に「戦争終結」を構想していたアメリカ

日本が太平洋戦争を決議したとき、当時の政府および軍部は、戦争終結をどのような形で行うかについてほとんど研究しないで、というよりも、万事あなたまかせで突入した。一言でいえば、ナチス・ドイツのヨーロッパでの勝利をあてにして、そのときには、孤立して戦うアメリカは戦意を失うであろうから、有利な条件で講和にもちこめばいい、という非常に手前勝手な政策しかもち合わせていなかった。

いっぽうアメリカは、もちろん、日本が開戦した当初には、さすがに戦争計画を持っていなかったが、真珠湾攻撃によって戦争が始まった直後に、すでに戦争終結までの計画を構想しはじめている。

具体的にいうと、昭和十七(一九四二)年八月、開戦の翌年に、まず東アジア政策研究委員会を作った。もちろん、ヨーロッパにおける対ドイツ戦争の終結方策も同時に別なところで考えている。こうして昭和十七年八月から、この戦争にどのようにして結末を付け、どういう形で日本を処理するかという問題を考え出し、十八年十月には極東地域委員会ができ、現実の政策文書を作成するまでになった。十九年一月には、これが戦後政策委員会に発展する。

この頃には、日本が敗北することはアメリカにとって自明の理となっていたから、占領政策をどうすべきかについて頻りに考えるようになっている。そして、十九年十二月、国務省、陸軍省、海軍省の三省が集まった調整委員会ができる。つまり、この三省調整委員会が主体となって、日本に対する戦後経営策を考え出していくのである。

ソビエトと共同で「日本占領分割案」が浮上

その裏側でもう一つの考えが先行していた。ソビエトが戦後の世界経営に乗り出してきていて、ソビエトとアメリカとの大交渉が始まっていたのである。十八年十一月のテヘラン会談で、ルーズベルトとスターリンとが会って、ソビエトとアメリカとが仲良く手をつなぎ、肩を組み合って戦後の世界政策をリードしていこうじゃないかということを決める。

もう勝利は目前である。我々は戦後の設計に掛かろうじゃないかということで、二人はご機嫌な形でテヘラン会談を終えた。このルーズベルトのご機嫌な意向が三省調整委員会に持ち込まれた。そして、日本の戦後をどうするかはソビエトも仲間として考えていこうではないかということから、三省調整委員会は、日本占領分割案というものを考え出してくるのである。

日本が降伏した後は、そのままでおさまらず、当分の間ゲリラ活動が起きるであろう、あるいは、徹底抗戦分子が至る所で反乱を起こすであろう。日本の占領はそれほど容易ではない。膨大な兵力を日本本土に送り込まなければ、日本の占領はうまくいかないのではないかと彼らは計算した。