ルーズベルトが長生きしたら実行されていた?

ところが、ルーズベルトの無条件降伏政策を、トルーマンは必ずしも継承しようとはしなかった。それに、天皇制の問題まで連合軍が勝手にするような強硬政策では、日本人は講和など結ばない、結べない、できるだけ緩和した条件で日本の降伏を誘うべきであると、グルー元駐日大使をはじめとする知日派の人びとがしきりにアメリカ政府に働きかけていた。

幸いなことにグルー元大使が昭和十九年末に国務次官になって、国務長官に働きかけるというようなことで、アメリカの政策が緩和の方向に向かっていく、と同時に、ヨーロッパでの東西の対立も顕著になり、米英はソビエトに対して猛烈な警戒心を抱きはじめていく。

歴史に「IF」はないが、もしルーズベルトがそのまま生きていたら、この日本分割政策が日本占領の基本政策として施行された可能性もなきにしもあらずであった。幸い、ルーズベルトの後を襲ったのが、ミズーリ州の田舎の政治家で国際情勢に疎いところのあるトルーマンであったために、側近の知恵者たちの意見をよく聞いて、無条件降伏政策の危険性を考えるようになってきたし、分割案の危険性にも思いを至すようになった。

それに、日本の占領政策としては、天皇陛下および日本の政府の機構をそのまま使ったほうがうまくいくのではないかという考え方が、アメリカ政府のなかに芽生えてきていた。それが、日本降伏後のアメリカ政府の政策決定に大きな影響を与えたのである。

大議論が交わされる中、日本側は終戦を決意

しかしながら、一方には、戦後の経営は米ソが手を組んでやる、そして、日本には最後まで無条件降伏政策を押しつけるべきである、という強硬な意見がまだ多くの米政府要人の頭を占めていたことも事実である。

ワシントンでの状況をよく調べていくと、この両方の意見がやたらにぶつかり合って、大議論が展開されている。三省調整委員会の下に極東小委員会というのがあって、ここでも大議論をしている。その結果、日本をどうすべきかについての最終決定がなされないままで、戦争の最終局面を迎えていたのであった。

ところが、当然まだまだ戦うであろうと思っていた日本が戦争終結に向かいはじめた。当時七十七歳の鈴木貫太郎首相の下、米内光政海軍大臣、東郷茂徳外務大臣といった人たちを中心とする、天皇陛下の信任の厚い内閣ができていた。

さらに言えば、陸軍大臣の阿南惟幾大将も、口では徹底抗戦を言うが、実は、最後まで鈴木首相を補佐するという信念を持ってこれに協力していた。それで、反対する軍部を抑え、どうにか終戦に持ち込むことができた。八月九日に天皇陛下の第一回ご聖断による、という意想外の方法で、戦争終結という大方策が決まって、日本の降伏がこの時点でほぼ決定する。