※本稿は、半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)の一部を再編集したものです。
不問にされた無謀な「戦争」
昭和十四(一九三九)年九月一日、百五十万のドイツ軍部隊が、ポーランド国境を越えて攻撃を開始する。第二次世界大戦のはじまりである。このヨーロッパ情勢の激変もあり九月十五日、ノモンハン付近の国境線をめぐる日ソ戦は早急に停戦協定が結ばれ、終結した(角川新書編集部注:昭和十四年五月に始まったノモンハン事件で、関東軍は大本営の方針に背いて戦線拡大したが、ソ連軍の優勢な火力により第二十三師団壊滅の大敗を喫した)。
歴史に「もしも」はないが、あのまま戦闘がつづけられていたならば……は、「運命の十年」を考える上で絶好の面白いテーマとなる。つまりは、日本はこの事変から何を学んだか、ということに帰結するのであるが。
ところが、組織というものは今日もまた同様で、失敗の研究を徹底的にし、その責任を明らかにしようとはしないものである。文字面としての各論は一応は残すが、頂点まで責任の及びかねないことは「そこまで」でとどめるのを常とする。この場合はまさにその典型となったのである。
陸軍の火砲は想像を絶するほど旧式だった
翌十五年一月、陸軍中央に設けられた「ノモンハン事件研究委員会」はその結論となる報告をまとめている。それは、作戦計画や戦闘そのものの調査研究はもとより、統制・動員・資材・教育訓練・防衛および通信・ソ連軍情報など多岐にわたるものであった。それぞれの「報告」では核心をついたことがいくつも記されている。
たとえば、「……火力価値の認識いまだ十分ならざるに基因してわが火力の準備を怠り、国民性の性急なると相まち誤りたる訓練による遮二無二の突進に慣れ、ために組織ある火網により甚大なる損害を招くにいたるべきは、深憂に堪えざるところなり」とある。
これはもうそのとおり。ノモンハン戦で、もっとも勇敢に戦った第二十三師団野砲第十三連隊の実情をみれば、「火力の準備を怠り」の事実はシロウトにも納得させられる。この師団砲兵が機械化の遅れた輓馬砲兵であったことはさておいても、その火砲は想像を絶するほど旧式であった。たとえば、歩兵直接支援とはいえ近距離用の三八式七五ミリ野砲は、全陸軍中もっとも古い明治三十八(一九〇五)年制式の代物で、ほかのどこの師団も使用していなかったのである。