途中から「白兵突撃あるのみ」と焦点がズレていく
ところが、「報告」はこのあとに「優勢なる赤軍の火力に対し勝を占める要道は一に急襲戦法にあり」という余計な文章を加え、せっかくの正しい判断をぼかしてしまう。日本陸軍の骨髄をなす白兵突撃の尊重は狂信の域に達していたらしい。
それゆえに、総判決はまことに怪しげなものとなっている。
「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛な攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機、戦車、砲兵、機械化された各機関、補給の潤沢との白熱的衝突である。国軍伝統の精神威力を発揮せしが、ソ連軍もまた近代火力戦の効果を発揮せり」
そして当然のことながら、ここから導き出される結論は、
「ノモンハン事件の最大の教訓は、国軍伝統の精神威力をますます拡充するとともに、低水準にあるわが火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」
どの計画も実行不可能は目に見えていたが…
こうして根本となるべき作戦指導者の杜撰かつ独善的な作戦計画と、前後を考えぬ無謀そして泥縄的な戦争指導は不問とされ、闇に消えていってしまっている。しかも事件後に一新された参謀本部には、総判決にいう「火力戦能力を速やかに向上」というお題目を突きつけられても、どうにも施すべき妙策もなかった。せいぜい「修正軍備拡充計画」とそれに並行する「支那派遣軍の兵力整理」に着手するのがやっとで、しかも、いずれの計画も実行不可能は目に見えていたのである。
しかし、このとき、救う神があらわれた。昭和十五年五月十日、ドイツ軍は矛先を西部戦線に転じ、ベルギー、オランダを攻撃。マジノ線を突破してパリへの電撃的な進撃作戦を開始した。そして六月十四日にパリが陥落する。
焦燥と無力感にうちひしがれていた陸軍中央は生き返る。「支那の兵力を減らすことばかり算盤をはじいて支那逐次撤兵まで決めていた陸軍省軍事課が、すっかり大転回して対南方強硬論をとなえた。これからすぐシンガポール奇襲作戦をやれ、というのである」(種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房)という形容のしようもないハシャギようとなるのである。