1945年8月6日、原子爆弾が投下された広島では広範囲に真っ黒な雨が降った。この「黒い雨」は人々に何をもたらしたのか。当事者たちに取材した毎日新聞記者の小山美砂さんの著書『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)より、旧亀山村(現広島市安佐北区)に住んでいた森園カズ子さんの体験談を紹介しよう――。
原爆ドーム
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青い空に太陽が輝く、夏の朝の出来事

森園の家は、旧亀山村の中で西綾ヶ谷と呼ばれた地域のほぼ入り口に位置し、農業を営んでいた。5人きょうだいの4番目に生まれた彼女は、豊かな自然の中で元気いっぱいに育った。家の前には小川があった。ウナギやカニ、エビが生息する清らかな流れは、洗濯や炊事のための生活用水をまかなう水源であり、子どもたちの遊び場だった。

あの日の朝は、いつもより早起きだった。出征兵士の見送りのため、学校の裏手にある神社に集められた。国民学校2年生だった森園も、「日の丸」を描いた布を結びつけた竹棒を、精いっぱい振って送り出した。「戦争」の意味は、よくわかっていなかった。

空は、突き抜けるように青い。太陽は力いっぱいの熱を放って、真っ白に輝いていた。焼き付ける日光から逃れるように学校へ急ぎ、一息ついたのは8時過ぎ。窓からは、たっぷりと光が注いでいた。窓際の席に座り、級友に「おはよう」と声をかけると、窓の外からバイクのエンジン音が聞こえた。「あ、中村先生が来ちゃった」。往診に向かう医者の姿が見えた。

午前8時15分。

日差しの比ではない。強烈な、黄色に近い光が目の前に「ピカーッ」と広がり、すぐに「ドーン」と、爆音が聞こえた。窓ガラスが音を立てて割れ、教室を分けていた仕切り戸が倒れた。

爆弾が落とされたら、防空頭巾を被って机の下に入りなさい――。たたきこまれた動きをとるまもなく先生が駆けつけ、「防空ごうへ急ぎなさい!」と指示した。児童約60人は一斉に外へ駆け出し、裏手の防空壕を目指した。森園は記憶していないが、一級上の男性はこの時、南側に連なる山の間から、もくもくと薄黒い雲が立ち上がるのを見たという。

多くの村人が、立ち上がる「きのこ雲」を見ていた。「これは広島に何か大ごとが起きた」。