ノモンハン事件の責任者たちが舞い戻ってくる

すなわち、昭和十五(一九四〇)年夏ごろから、日本には奇妙なほどに「南進」の大合唱が沸き起こってくるのである。ノモンハン事件の翌年に成立した第二次近衛内閣は、七月二十七日には大本営政府連絡会議が陸軍の主導のもとに「武力を用いても南進」という重大な国策を決定する。根拠なき自己過信、驕慢な無知、底知れない無責任と評するのは容易である。が、いまの日本も同じようなことをやっているのじゃないかと、そんな観察ができるだけに、情けなさはいや優る。

いや、それに輪をかけて情けないことがその後につづいて起こっている。関東軍において辻政信参謀とともに、ノモンハン事件をミス・リードした最大の責任者の一人、服部卓四郎中佐がその年の十月には参謀本部作戦課へ栄転してきた。彼はただちに作戦班長となり、翌十六年には作戦課長に昇格し、八月には大佐に進級する。辻少佐はやや遅れるが、服部が課長になった少し後の十六年七月にひっぱられて参謀本部員の作戦課作戦班長として服部課長を補佐するようになる。

サイパンでの日本軍
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慎重派を切りすて、またもや杜撰な作戦を立てる

辻を中央へ呼び寄せることに、当時の作戦課長土居明夫大佐が猛反対した。

「絶対に駄目だ。君と辻を一緒にしたら、またノモンハンみたいなことをやる……」と。

半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)
半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)

しかし、班長の服部の部内策謀のほうが上であった。作戦部長、田中新一少将は慎重派の土居を切りすてた。かわって課長に昇進した服部は、いまや南進論の第一人者になっている辻を呼び寄せる。昭和十六年七月、こうして服部・辻のコンビを中心に三宅坂上(陸軍参謀本部のあった場所)は東南アジア進攻一色にそめあげられていった。

辻はその著『ガダルカナル』に例によって得意げに書いている。昭和十七年七月に出張で台湾に飛んだときの感想である。

「台湾研究部が店開きをし、その部員に選ばれて初めて南方研究の第一歩を踏みだしてからまだ僅か一年有半、南方作戦の編制装備や訓練を真面目に考え始めたのは十六年の正月元旦からだった。わずか半年の研究で現地の作戦計画をたて、数カ月で発動したのが太平洋戦争なのだ」

またしても杜撰な、泥縄的計画で対米英戦争へ引っ張っていったのか、という批判はもうやめる。あに辻のみならず、開戦前の三宅坂上の南進論の合唱はまこと騒然たるものであった。