「北海道占領に間に合わない」と焦るロシアは…
あわてたのはソビエトである。ソビエトは、八月九日、約束どおり満洲に侵入して対日参戦をしてきた。これに対して、日本政府はソビエトに宣戦布告をしようとはしなかった。日ソ中立条約が依然として有効であるからである。
こうして日本は宣戦布告せずということを決めて、一方的なソ連軍の蹂躙に任せた。つまり満洲での戦いを国際法の審判にゆだねた。これは戦争にあらず、従ってやむを得ない自衛戦であるという建前をとって、満洲の曠野で敗走がつづいたのである。
参戦したソビエトは、日本の降伏が近いということで、政治的な猛烈な働きかけに転じないわけにはいかなくなる。どう考えても、ソビエト軍は満洲を占領するのがやっとであり、いわんや北海道まで軍隊を持ってくることは時間的に不可能であるということから、アメリカとの外交折衝によって何とか日本本土に軍隊を送り込もうと、さまざまな手を使ったのである。
その具体的な例のひとつに、八月十日、日本時間の八月十一日の午前二時、モスクワで、ハリマンという当時のアメリカ駐ソ大使と、ソビエトのモロトフ外務大臣とが猛烈な激論をした事実がある。
二日しか戦っていないのに統治権は渡せない
モロトフは、「日本占領にアメリカの軍司令官とソビエトの軍司令官の二人を置こう。アメリカ軍の軍司令官にマッカーサーを選ぶならば、わが軍は極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥を選ぶ。マッカーサーとワシレフスキーの二人で、日本を二つに分割して統治しようではないか」と、強硬にハリマン大使に言う。
ハリマン大使は、満洲鉄道の計画にもかかわったアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンの息子であるから、アジアのことをよく知っていたし、非常に度胸の据わった人でもあった。それに満洲でのソ連軍の国際法無視の理不尽な攻撃に不信感を抱いていた。
「とんでもない話である。わがアメリカ軍は日本を相手に四年間も戦っている。しかるに貴国はわずか二日ではないか。二日しか戦っていないソビエト軍になぜ日本の統治権の半分を渡さなければいけないのか。全く理屈に合わぬ」
と言って、これを断固としてはねつける。これに対しモロトフは、
「それはお前の勝手な意見ではないか。ワシントンに問い合わせて聞け。トルーマンはそのように言わないはずである」と言うが、ハリマンは、「トルーマン大統領に聞かなくてもわかっている。私はトルーマン大統領からすべてのことを聞いてきている。全権は私にある」
と言って突っぱねて、モロトフの攻勢を抑えた。