問題はいつソビエトが対日参戦してくるか

というのも、日本軍は、敗北を承知しながら、陸地でも海上でもものすごい抵抗をして、ついには“神風特別攻撃隊”という世界の戦史にないような戦法をとって徹底抗戦をする。そういう強さに驚いて、約八十万の軍隊を日本本土に送り込まないことには、日本占領はうまくいかないだろうと予測したのである。

そのような背景から、日本分割案が出てきた。そして、話がどんどん詰められていって、日本分割案が決定するのが昭和二十年三月、まだルーズベルトは生きていた。そしてこの結論に大統領はすこぶる満悦した。

ところがそのときに、実は、その背後においていろいろな議論があったのである。ソビエトがいつ対日参戦してくるか。また、参戦してこない場合でもソビエトを交ぜるかどうか、といったような議論が沸騰して、なお委員会は揉めに揉めていたのである。

しかし、ソビエトは、一カ月前の昭和二十年二月のヤルタ会談において、ドイツの降伏後三カ月たったら対日参戦して、一気に満洲に攻め入るということを、ルーズベルト、チャーチルと諮って態度を明確にしている。そうなればまことに都合がいい。とにかく日本はそれまで頑張るだろうから、スターリンを信用し、ソビエトは参戦するという大前提の下で結果的には日本分割案が練り上げられていったのである。

樺太、千島だけでなく日本本土も奪いたい

現実に、ドイツは五月七日、降伏文書に調印した。それから三カ月後となれば、八月七日以後には、必然的にソビエトが日本に参戦してくることになる。アメリカも急ぎださざるを得ない。

そのうちにルーズベルトが亡くなった。日本を降伏させるために、無条件降伏政策の見直しの声もではじめる。そのため、ソビエトの動向をにらみながら、アメリカの政策も次第に変化してくる。

しかも、戦後の世界はソビエトとアメリカが手を組んでリードしていくのだという約束を、スターリンは常にちらつかせる。ソビエト参戦の暁には、樺太はもちろん返してもらう、それから千島も自分のものにする。この千島の条項は、千島は必ずしもソビエト領ではないから、日本から勝手にもぎ取るというような表現で、アメリカも承諾している。

つまり、ソビエトは、樺太、千島という分け前をすでにもらっていながら、さらにそのうえどうしても日本本土にソビエト軍を送り込みたいという意図を非常に強く出しはじめた。ソビエトはヨーロッパで、ドイツ降伏後、ドイツの半分、ベルリンの半分を取ったりしているが、その方式をそのまま日本に持ち込みたいと、不相応に大きな野望を抱きはじめたのである。