鎌倉幕府2代将軍・源頼家とはどんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「武芸達者で、政治問題にも関心を持っていた。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれているような暗愚な君主ではなかった」という――。
鶴岡八幡宮
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2代将軍・源頼家は本当に暗君だったのか

源頼家は、父・頼朝の死去した後(1199年)、2代目の鎌倉将軍となった。しかし、頼家の将軍としての評価は、これまで、とても悪かった。

頼朝は「偉大な独裁者」、ところが頼家は若年であり、しかも気性の矯激な暗愚な君主というのが通説である。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、俳優の金子大地さんが、頼家を熱演している。父・頼朝を超えようとしてもがくも、その熱意は空回り。しかも父に似て無類の女好き。やはり暗愚な君主という通説を踏襲している。

部下の愛人を奪おうとする「鎌倉殿」

女性にまつわる話は鎌倉時代後期に編纂へんさんされた歴史書『吾妻鏡』に記されている。御家人・安達景盛の妾を奪おうとしたのだ。ドラマにおいては、景盛の妾も、頼家にゾッコンなように描かれていたが、実は、景盛の妾は、再三にわたる頼家の求愛を蹴っていた。それに業を煮やした頼家は、景盛が三河の国に旅立っていた留守中に、側近を派遣し、妾を拉致。強引に囲ってしまったのだ。

ドラマのなかで、頼家は「父も同じことをやっていたのに、なぜ自分だけが非難される!」と怒りをぶちまけていたが、頼朝は複数の妾を持つことはあっても、他人の妻や妾を強引に奪うというような分別のないことはしていない。

景盛は、三河から帰ると、すぐに妾を奪われたことを知る。そして、当然ながら、頼家に対し、恨みを募らせる。その情報は、頼家の耳にも入る。頼家は反省するどころか、恨みを持つなどけしからん、景盛を討ち取ってしまえと側近たちに命じるのだ。

一触即発の事態を収めたのは、北条政子であった。彼女は景盛の父・安達盛長の邸を訪問し、頼家の所業を非難。「景盛を強引に滅ぼそうというなら、まず私に向かって矢を当ててからにしなさい」と息子に伝えるのだ。さすがの頼家も、母のこの言葉に矛を収めるしかなかった。

頼家を弁護する声もないではなかった。「13人の御家人」のひとり、大江広元は「今回の頼家様の行い、先例がないわけではございません。白河院に寵愛された祇園女御は、源仲宗の妻でした。しかし、院は女御を召した後、仲宗を隠岐国へ配流にしてしまったのです」と述べている(『吾妻鏡』)。頼家の行動に先例ありとして、弁護する見解もあったのである。