吾妻鏡に書かれた頼家情報の真贋

『吾妻鏡』は、頼朝以降の源氏をおとしめ、北条氏を持ち上げる書き方になっている点もあるので、頼家に関する記述には注意も必要である。

同書には、頼家をおとしめるかのような記述が他にもある。例えば、建仁元年9月20日の「御所で蹴鞠があった。およそその間、頼家は政務をなげうち、連日、蹴鞠に没頭した」との文章もそうであろう。

蹴鞠に没頭した頼家の行動を非難することは、「蹴鞠を単なる遊戯とみなす現代人の先入観が潜んでいる」(坂井孝一著『源氏将軍断絶』PHP研究所)とする見解がある。

確かに、蹴鞠は単なる遊びではなく、時に重要な政治ツールとなる芸能であった。蹴鞠をする頼家をいたずらに非難することに慎重でなければいけない。

独自の派閥を形成して権力を維持

前述したように、13人の宿老たちは、頼家の親裁を否定したわけではなかった。しかし、頼家はそれに対抗するかのように、自らの側近に力を持たせようとしていた。

13人の有力御家人以外から訴訟を聞き届けることが停止されたとの『吾妻鏡』の記事から約1週間後の4月20日には、小笠原弥太郎、比企三郎、比企弥四郎、中野五郎ら側近以外は、頼家から特別の仰せがなければ御前に参上することはならぬとの決定があったという。

7月26日、安達景盛の妾を囲っている建物には、小笠原弥太郎、比企三郎、和田朝盛、中野五郎、細野四郎以外の者は近寄ってはならないとの命令からも、独自の派閥を形成しようとした頼家の意向を見ることもできよう。

彼ら側近がやったこと(景盛の妾の拉致など)の是非はここではおくとして、宿老とは別に新たなルートを強化しようとした頼家はなかなかのしたたかものであり、単なる操り人形でなかったことは確かである。

が、最終的に頼家は、北条氏によって、鎌倉を追放され、伊豆の修善寺に幽閉。1204年7月、伊豆の修善寺で殺害される。頼家を殺害したのは、北条氏の手の者といわれている。