なおも諦めないスターリンは「北海道の分割」を提案
このとき、もしハリマンが下手にでてイエスと言ったり、あるいは、ワシントンに問い合わせたりしてもたもたしているうちにトルーマンが対日強硬派に動かされでもしていたら、どうなっていたかわからない。しかし、ハリマンは、トルーマンに知らせることもなく、自分ひとりの判断でソビエトの要求を退けた。
後に、トルーマンはそのことを聞いて、まさにハリマンは自分の思ったとおりのことをやってくれたと激賞するが、とにかくハリマンの頑張りによって、ソビエトは一旦は鉾を収めざるをえなかった。
ところが、ソビエトはなお諦めてはいなかった。日本が降伏した翌日の八月十六日、スターリンはトルーマンに対して、
「日本本土を半分にわけて軍司令官二人による統治はソビエトとしてもあまりにも過大の希望であると思うので、これは引っ込めるが、北海道を留萌と釧路を結ぶ線で二つに分けて、その北半分をソビエト軍が統治したい。
留萌と釧路の町は当然ソビエト軍のなかに入るものとする。もしこの希望が叶えられないならば、ソビエト国民の世論が承知しないだろう。テヘラン会談以来の米ソ関係がこれによって悪化することもあり得るかもしれない。それはアメリカ政府としては十分に考えていただきたい」
という強硬な書簡を寄越して、北海道の北半分の領有を求めてくる。
「崖っぷちの降伏」が図らずも日本を救った
それに対して、トルーマンは、
「もはや日本占領軍最高司令官はマッカーサーただ一人に決めてある。北海道も日本本土のうちであるから、マッカーサーの統治下にある。ソビエト軍は一人たりともその統治に加わることを得ず」という強い返事を送る。
スターリンはかんかんに怒って、
「私と私の同志は、かかる返事を受けようとは予期しなかった、これが戦後肩を組んで世界政策を推進していこうという友邦のやることであるか」
と、恨み骨髄のようなことを言うという一幕があった。日本分割のソビエトの夢はこうして潰えたのである。その代りに満洲にある日本軍兵士たちをシベリアに送るという悪魔的な政策をとることになる。
思えばまことに間一髪、日本の降伏はまさしくギリギリの崖っぷちで決せられたのであるが、それが絶好のときであったことがわかる。日本国民はだれひとり国家分割の危機など知らなかった、という事実を考えると、歴史というものが裏側にどんな秘密を隠して流れていくことか、そぞろ恐ろしくなってくる。