人々の注目を浴びたことで、天下祭における附祭は豪華で派手な余興となった。当番町どうしの競争心が、その傾向に拍車を掛けたのは間違いないのである。

江戸の華にふさわしい天下祭の賑わい

御徒の山本政恒は神田祭だけでなく、山王祭もリアルタイムで見物しており、その光景も以下のように書き留めている。

各町年寄、其外は美服を着し、袴を付け、脇差を差し、若ひ者は揃ひの衣服を着し、惣体花の付たる菅笠を冠り、紐は太き赤色を用ゆ。白足袋・福草履何れも出しの先へ立ち、鳶の者は足袋はだし、前後左右にありて出しの扱をなす。鉄棒引、又きやりをなす。踊屋台・地踊の踊り子は、町内娘又は芸者、踊の師匠附属し、大きなる団扇を以て踊り子を煽ぎ、底抜屋台は長唄・清本等・富本の三味線を引、うたいながら歩む。太鼓・鼓みも附属す。又芸者の内、髪を男曲げに結び、美麗なる衣服・襦袢を着し、片肌上着をぬぎ、たつつけ袴をはき、草鞋を履き、鉄棒を引き、花笠を冠り、又は背にかけ、出し屋台の先へ立、総て花やかなる扇を開き持なり。又町名を記したる四半の幟を高く建て、町内毎に飲食物を用意せる者附属す。(山本政恒『幕末下級武士の記録』)

山本が書き留めた山王祭の光景は、三部構成のうち附祭のパートであった。

祭礼を監督する立場にある町年寄たち町役人は袴を付けて脇差を差すなど、武士のような格好をしていたが、若い衆たちは揃いの服で派手な格好だった。

出し(山車)を曳く鳶の者が木遣り歌を披露し、踊り子や三味線を弾く演者たちが歌舞音曲を披露する姿が浮かび上がってくる証言である。山車に先立って、男装した華やかな芸者たちの行列が彩りを添えた様子も分かる。町ごとに、祭礼行列の参加者に飲食物を補給する者も付いていた。

幕府の規制は空文化していった

山本が鮮やかに描写したように、天下祭では江戸の華にふさわしい光景が繰り広げられたが、となれば祭礼費用が増大するのは必至だった。

安藤優一郎『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新書)
安藤優一郎『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新書)

天下祭は幕府主催の祭礼としての顔も持っていたのだから、あまりに華美なものとなるのは好ましいことではなかった。費用の増大も心配だ。

そこで、幕府は規制に乗り出す。祭礼費の助成という形でその尻拭いを求められることも懸念しただろう。

とりわけ享保・寛政・天保改革では贅沢は敵とばかりに、華美な祭礼は格好の取り締まりの対象となる。附祭での出し物の数を減らすなどして祭礼費の削減をはかったが、改革の時期が終わると、幕府の規制も緩んで元の黙阿弥になるパターンを繰り返したのである。

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