江戸時代の子供たちはどんな教育を受けていたのか。歴史研究家の河合敦さんは「教育は各藩にゆだねられていた。徳川家に恩を受けた歴史のある会津藩では、幼いときから目上の人や父母に絶対服従することを家庭で教えていたため、独特な士風が醸成された」という――。

※本稿は、河合敦『江戸500藩全解剖』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

日本の刀
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勇敢な薩摩隼人をつくり上げた教育システム

薩摩武士の勇猛さは江戸時代、天下に知れ渡っていたが、ようやく薩摩藩に藩校が設定されるのは安永2年(1773)のことで、それ以前は郷中ごうちゅうと呼ばれる教育システムが藩士の育成を全面的に担っていた。

薩摩藩では藩士の子供たちは郷中(方限ほうぎり)と呼ぶ近隣グループをつくって自主教育をおこなった。6歳から10歳頃までを小稚児こちご、11歳から15歳頃までを長稚児おせちご、15歳から25歳頃(妻帯前)までを二才にせと呼び、それぞれの同年齢集団がお互いに研鑚しあった。

また小稚児集団は長稚児に、長稚児は二才に指導を仰ぐ年功序列の教育制度が機能していた。

郷中は特定の教育施設を持たないが、稚児は毎朝6時に自分の敬愛する二才の屋敷へ行き、そこで四書五経などを学ぶことになっていた。午前8時になると、路上や広場に集まって同年齢集団で相撲や戦ごっこ、駆けっこや縄跳びなどで遊びながら体を鍛えた。午前10時、小稚児集団は長稚児のもとに集まり、今朝学んだことを反復させられた。うまくできないと、叱責されたり折檻を受けた。

昼から午後4時までは遊戯の時間。ただ、個人行動は許されず、仲間とともに遊ばなくてはならなかった。その後は武道の鍛錬ということで、稚児は二才から2時間みっちりしごかれた。午後6時になると、小稚児は一切の外出を禁じられた。いっぽう長稚児は、二才のもとに出向いて夜8時まで夜話を聞き、武士としてのあり方を学んだ。こうしてようやく1日の日課が終わった。

郷中の教育で重視されたのは、知識の修得ではなかった。仲間との団結、長幼順の遵守、武芸の上達、いざというときに命を捨てる覚悟、そして人間としての潔さであった。こうした教育を受け続けることで、主君の命に絶対的に服従する剽悍ひょうかんな薩摩隼人が完成したのだ。