江戸時代の「お祭り」は、今よりも大掛かりで金もかかった。歴史家の安藤優一郎さんは「神輿に加えて、山車や附祭が出る三部構成だった。江戸の人たちは、練り物の豪華さを競い、衣装代を賄うために妻や娘を遊郭に売るほど熱狂した」という――。

※本稿は、安藤優一郎『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

三社祭の神輿
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今よりも大掛かりだった江戸時代の「お祭り」

神社の祭礼というと、現在では御神体が乗る神輿がクローズアップされる。神輿には、神社が管理する「宮神輿」と、氏子町会が管理する「町神輿」の二種類があった。

現代では、宮神輿が氏子区域を巡幸する一方で、町神輿は氏子町を練り歩いてから神社に宮入りする。そんなスタイルが定番だ。

ところが、江戸時代まではそんな神輿中心の祭礼ではなかった。

氏子町による山車と「附祭」も加わる三部構成が取られた。というよりも、山車や附祭が祭礼の主役格となっていた。

山車は氏子町が製作したもので、神の依り代としての役割を担った。元々は氏子町にちなんだ様々な造り物や人形といった飾り物が付いた屋台を指しており、各町のシンボルでもあった。

最初は人が担いで練り歩いたが、後には車輪が付けられて牛で牽くスタイルが一般的となる。山車が大型化したため、車輪付きの方が練り歩くのに都合が良かったからだろう。

山王祭では百以上の氏子町が四十五番組に、神田祭でも百以上の氏子町が三十六番組に編成されて、各番組が山車を出した。一つの番組で複数の山車を出す場合も見られた。

「余興」に大金をつぎ込む江戸っ子

もう一つの附祭は、籤などで当番となった氏子町(当番町)による出し物のこと。時期により増減したが、最低三つの町が選ばれた。その倍以上の町が選ばれることもあった。一つの附祭は踊り屋台、地走り踊り、練り物の三つから構成されるのが一般的である。

踊り屋台は文字どおり踊りの舞台のことで、踊り手を乗せながら移動させた。地走り踊りは歩きながら踊るもので、踊り手だけでなく楽器の弾き手も一緒に歩いた。

練り物は、びっくりするほどの大きな造り物を仕立て、仮装をした人々が一緒に練り歩くものである。