3年後の11年8月の代表選で、野田佳彦は4つの試練の教訓を忘れていなかった。
不屈の闘魂で勝負の出番を待ち、ポスト菅の代表選実施が確実になると、迷わず真っ先に出馬を表明する。挙げた手は最後まで降ろさず、勝利を握った。
代表選で武器となったのが得意の演説力だった。「非世襲、大組織なし、資金力なし」の野田は、駅前演説が政治活動の原点である。県議選に出た87年10月から財務相就任の10年6月まで23年8カ月、船橋周辺の駅前で毎朝欠かさず街頭演説を続けてきた。
代表選の「泥鰌と金魚」「雪の下り坂の雪達磨(ゆきだるま)」の話でも明らかなように、巧みな比喩が売りだ。だが、何度かインタビューした経験からいえば、意外にも能弁型ではなく、当意即妙の才からも遠い印象である。おそらく練りに練ったシナリオ、選び抜いた言葉を駆使する「計算された演説」が野田流の特徴と見る。
政権到達のもう一つの秘密は直前の2年の財務副大臣、財務相の体験だろう。民主党政権誕生の際、リーダーはこぞって閣僚や党の要職に就いたが、野田だけ外れた。偽メール事件や08年の代表選問題の後遺症が影響したといわれたが、財務相となった藤井裕久(現民主党税制調査会長)が財務副大臣に起用した。
「野田さんは野党時代から、いつでもどこでも誰にでも同じことを言う。背骨がある。ネクストキャビネットの財務大臣のとき、経済の中の財政のあり方という点で一つの考えを持っていると思った。それで副大臣としてきてもらった」
一緒に副大臣を務めた峰崎直樹(現内閣官房参与。元参議院議員)が財政の分野での仕事ぶりについて語る。
「たとえばインフレターゲット論や『小さな政府』といった一つの強い理念で、という印象はない。オーソドックスにものを考えるタイプで、財政安定論者であるのは間違いない。野党時代、ネクストキャビネットの財務大臣で特別会計にメスを入れる『野田プラン』をつくった。そこに目を付けた野田さんはすごい」